※【硫黄島に関するご意見・寄稿をお待ちしています】

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(2010.7.18)

菅総理、硫黄島遺骨収集「特命チーム」設置を指示
 
 
収集作業本格的に…喜ぶ戦没者遺族

【写真=管直人首相・総理官邸で

菅直人総理大臣は15日、硫黄島(東京都小笠原村)の遺骨収集問題について「総理大臣補佐官を中心とする(遺骨収集)特命チームを設ける」と表明した。また、「同島には今も1万柱以上の戦没者の遺骨が残っており、米国の資料も調べてちゃんと探せば相当数の遺骨が見つかる」と指摘。さらに、「今月中に厚生労働省と防衛省の担当者でチームを編成する」と記者団に語った。

 また、硫黄島で遺骨の収集現場を視察した長妻厚生労働大臣に対し、「硫黄島は日本の領土であり、一日も早く遺骨を収集し、遺族の方がお参りできるようにするべきだ」と述べ、政府内に関係省庁による特命チームを設置し、遺骨収集の活動を促進するための方策を検討するよう指示した。               

 特命チームは、阿久津幸彦・総理大臣補佐官をトップに、内閣官房や厚生労働省、それに防衛省の担当者が参加して今月中にも初会合を開き、遺骨の収集を迅速化するための計画や、情報収集の強化策などについて検討していくことにしている。

 阿久津補佐官は、硫黄島(いおうとう)の遺骨収集に関し「国の責務。硫黄島は戦死者の4割しか収集できておらず、遅れている」と述べ、阿久津幸彦首相補佐官を中心とする特命チームを設けると表明した。

前日14日、硫黄島(東京都小笠原村)を慰霊に訪れ、硫黄島戦没者追悼式に出席した長妻厚労相は、太平洋戦争末期の激戦で2万人を超える日本兵が戦死した遺族らによる遺骨収集現場などを視察。取材に対し「長い年月がたち、ご遺骨が傷んでいる状況があった。もっと予算を組んで早めに収集していきたい」と語った。

 遺骨収集に長年関わった旧硫黄島島民の一人は、「(遺骨収集に)これまで、腰の重かった政府がやっと本気になってくれた。戦没者の遺族たちも喜んでくれるでしょう。われわれも苦労して作業を続けてきた甲斐が報われてほっとしている。」と話していた。

 戦没者遺族(硫黄島協会)は、これで地下に眠っている戦没者も浮かばれるでしょう。最後の人柱まで収集できるように、国も頑張って続けてほしい」と語たった。  
 
   【写真提供・小笠原新聞】




2007.7.6

 小笠原村主催 11回目の「硫黄島墓参・慰霊の旅」

   硫黄島旧島民や戦没者遺族の終わらぬ「戦後」

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 今年で11回目を数える小笠原村主催の「硫黄島墓参・慰霊の旅」が、父島から南へ270キロ離れた太平洋戦争の激戦地・硫黄島(小笠原村)で、6月21日行われた。この慰霊の旅には、森下一男村長をはじめ、村議会、戦没者遺族や小笠原在住旧硫黄島民、硫黄島協会、そして「平和教育」の一環として参加した小笠原村立父・母島中学校生徒ら189人が上陸した。

 帰島後、父親を硫黄島で亡くしたという宮崎県から参加した戦没者遺族の柳瀬泰子さん(67)が、筆者に涙ながらに語ってくれた姿が印象的だった。『摺鉢山からの眺望はすばらしかった。こんな静かで明媚な所が日米両軍の決戦地だったなんて信じられない。61年ぶりに3姉妹で初めて参加し、父の戦死した場所が見つかった。ようやく、親孝行でき、胸のつかえがとれた思い。本当に嬉しかった。』と。

 今回の訪島の旅で、強制疎開させられ、いまも帰島が許されない旧島民は喜びはひとしおであったに違いない。摺鉢山は戦前、島の小学生が卒業記念に登った山という。戦争さえなかったら、今ごろはたくさんの観光客の目を楽しませていたことだろう。

 これまで、本紙は戦没者遺族や硫黄島旧島民の人々から、お手紙や電話で様々な訴えを聞いた。その都度、旧島民の終わらない「戦後」を強く感じる。その中で、彼等が最もこだわり続けてきているのは遺骨の収集だ。平成19年現在、収集されずにいる戦没者の遺骨は未だ約1万3千余柱も残されている。大量の遺骨が残る限り、この島はいつまでも「戦後」に区切りがつかないのではないだろうか。それは、硫黄島旧島民や戦没者遺族の思いにも通じると思う。

 その内、硫黄島民戦没者は82人を数える。平和を築くということは、まず「戦後」をきちんと処理することだと思う。その一つとして遺骨収集が大切なことを改めて訴えたい。収集が難しくなった今だからこそ、国に大規模で徹底的な調査を願いたい。(Y・H)


2007年3月16日

 硫黄島で日米合同慰霊式典開催

    戦没者2万8600人の冥福祈る

  「遺族の悲哀と苦しみ風化を」懸念----遺族代表

硫黄島での日米合同慰霊追悼顕彰式で献花する遺族ら

 太平洋戦争末期、日・米両軍が死闘を繰り広げ、本土で最初に激戦地となった硫黄島(東京都小笠原村)で14日、日本側の生還者と遺族らでつくる硫黄島協会(遠藤喜義会長・本部・神奈川県横須賀市)と米海兵隊退役軍人会が主催した日米合同の慰霊式典が開かれた。式典には、日・米両国の元軍人や戦没者遺族、在沖縄米海兵隊員ら約400人が出席。日米再会記念碑前で行われ、日・米両軍で約2万8600人に上る戦没者の冥福を祈った。

 式典で、遺族らでつくる硫黄島協会の遠藤喜義会長(84)が「残された遺族の悲哀と苦しみが、近年風化しつつあることを憂える。あの悲惨な戦いを二度と繰り返さないよう、長く後世に語り継ぐべきだ」とあいさつ。

 在沖縄米軍トップのジョセフ・ウェーバー第3海兵遠征軍司令官は「日米それぞれの国家の要請に従い責任を果たした勇敢な戦士たちに哀悼の意をささげる」と述べた。(2007.3.14)


  硫黄島の戦没者84人の遺骨、故国に  

 東京の千鳥ヶ淵戦没者墓苑で2日、太平洋戦争の激戦地となった硫黄島(東京都小笠原村)で、遺骨の収集を続けている調査団から、戦没者の遺骨84人の遺骨が厚生労働省に引き渡された。遺骨は、同省に仮安置されたあと、戦没者墓苑に納められる。

 硫黄島は、太平洋戦争の末期、日・米両軍の間で激しい戦闘が行われ、日本側の戦死者はおよそ2万1900人に上った。国による遺骨の収集は昭和27年から続けられていたが、激しい砲撃で地形が変化したり、戦後、米軍や自衛隊などによって飛行場などの基地の建設があって、年々収集は難しくなり、これまでに見つかった遺骨はおよそ8600人にとどまっている。

 今回の調査団に参加した森谷明さん(79)は「骨も風化し、触るだけで粉々になってしまう状態ですが、わたしたちには終わりはありません。1人でも多く連れて帰れるように収集を続けたい」と話していた。

 同島は、先の大戦で本土防衛のため真っ先に戦場となったこの島は、日米合わせて2万7千人もの戦死者を出し、その内、未だ1万2000余柱の日本軍将兵の遺骨が、未収集のまま残され放置されている。


(2007.2.28 )             

 日本航空、硫黄島への戦没者慰霊にチャーター便運航を決定!   

    民間機のチャーター便の運航は初めて

 日本航空は27日、厚生労働省の要請を受け、日本の航空会社では初めてとなる硫黄島(東京都・小笠原村)への「戦没者慰霊巡拝」のチャーター便を3月6日に運航をすることを発表した。これによりご遺族の身体的負担は、大きく軽減されることになる。硫黄島に民間機のチャーター便での運航は初めて。

 これまで同島には一般の民間人は上陸が制限されており、正式に上陸できるのは、戦没者遺族らが年3回、国などの墓参事業として自衛隊機を利用して実施している。このほか墓参としては、小笠原村が年1回6月に旧硫黄島島民、小笠原島民の「硫黄島慰霊・訪島事業」などは定期船の「おがさわら丸」で行なっている。

 チャーター便はMD90型機(150人乗り)で、硫黄島で給油できず、羽田空港で往復分の燃料を満載するため、介助者を含む遺族99人と厚労省などのスタッフ最大10人しか乗せられないという。

 同機は、午前8時10分に羽田空港を出発し、約2時間で硫黄島に到着。島内各地を巡拝した後、午後6時ごろに羽田空港に戻る予定。

   ◇  ◇

【チャーター便運航概要】

1.運航月日=2007年3月6日(火) (予備日3月7日)

2.路線=羽田空港=硫黄島間 往復運航(日帰り)

3.機材=MD90型機 (150人乗り)

4.運航スケジュール=JAL4907便 羽  田 08:10発−10:15着 硫黄島

           JAL4908便 硫黄島 15:45発−17:50着 羽  田


(2005年 6月20日 )

  17年度「硫黄島訪島事業」

  150人が参加、戦没者戦没者慰霊式

  平和を祈念、「終わらぬ戦後」---小笠原村

【硫黄島発=】本土から南へ1.250キロ離れた“玉砕の島・硫黄島”で平成17年度「硫黄島訪島事業」(小笠原村主催)が、16日から19日の3泊4日の日程で実施された。 硫黄島を訪れた2日間は好天に恵まれ、強烈な陽射しが肌を刺す。じっとしていても汗が噴き出す暑さに当時の日本軍将兵の苦悩が偲ばれる一方、太平洋戦争の末期、この島で日米合わせて約27.000人が戦死した。硫黄島は、米軍との死闘があったとは思えぬ穏やかな表情だった。しかし、猛烈な艦砲射撃で、摺鉢山が低くなったというが、かつての集落もほとんど跡形を止めていない。(本紙・加納克己)

 17日、村立平和祈念墓地公園で行われた「戦没者追悼慰霊式」には、硫黄島戦没者遺族、硫黄島旧島民、小笠原島民、小笠原中学生らに加え、森下一男村長、村議会議員や 防衛施設庁、国交省、東京都からの来賓のほか、海・空自硫黄島基地司令など149人が参加して行われた。

 式典は午前10時から、硫黄島旧島民慰霊碑がある「村立平和祈念墓地公園」で始まった。式典の挨拶で森下村長は、「返還後37年の間、平和な暮らしを営まれているが、それは27.000余名(日・米会わせて)の尊い命と旧硫黄島島民82人の犠牲の上である。未だ帰島もかなわぬまま、多くの御霊が眠っている」と追悼の言葉を述べたあと「硫黄島(小笠原村)は今も“戦後が続いている”」と訴えた。

 また、小笠原在住硫黄島旧島民を代表して岡本良晴会長は「美しい小さな島で日・米合わせて80.000人の将兵たちが激しく戦い、その犠牲の上に今日の平和がある。今年2月、摺鉢山の麓で遺骨収集作業中(野球の)ユニホームとスパイクが見つかった。島民のものか兵士の物かは定かではないが、(編集部・注=戦前、硫黄島では野球が盛んで、部落別や兵士達と交流試合が行われていた)その情景を想いだし、おもわずスパイクを抱きしめ、涙が止まらなかった」と述べ、「私達は最後の最後の1柱が見つかるまで、全力を尽くして遺骨収集に取り組み、必ずお迎えに来ることをお約束いたします」と追悼の辞を述べると共に今なお残る慰霊に対し誓った。

 参列者全員が英霊に対し黙とうした後、平和教育の一環として参加した小笠原中学校生徒代表が「私達は、今回訪島するに先だって、硫黄島の事を多く学びました。平和な時から一変し、戦争で尊い命が失われました。その戦争の悲惨さを知っているのはこの大地だけです。私達はここに誓います。『平和を守り、二度と戦争を起こさない事を---』と、誓いの言葉を述べた。

 この後里帰りをする旧島民や遺族は慰霊碑に水や果物を手向けたり、慰霊の巡拝へと想い思いに島内を巡った。

 福島県から父を亡くしたという渡辺敏子さん(61)は、「父親(海軍)が60年前、硫黄島で戦死をしたと母から聞かされ、一度はこの島に来たいと思っていた。今回ようやく念願がかなって、父のなくなったこの硫黄島に初めて来ることが出来ました。今まで父が亡くなった硫黄島など遠い世界の果てに有り、訪れることなんて出来ないとあきらめていました。これからの時間を、硫黄島にスポットをあててさらにあの時代の背景、太平洋戦争を中心にしてじっくり調べていきたい。訪島を実現してくれた硫黄島協会や小笠原村に感謝しています」と話していた。         

  ◇  ◇

 太平洋戦争の激化に伴い、昭和19年、小笠原諸島が最前線基地となり、6.886名(硫黄島民1.098名)の小笠原島民は、軍の命令で手荷物は風呂敷包み二個に制限され、着の身着のままで強制疎開をさせられた。このうち、15歳から60歳までの男子825名(硫黄島民160人)が軍属として島に残された。

 硫黄島は、太平洋戦争における日本本土での最初の戦場となった激戦地で、日・米軍合わせて2万7千余の犠牲者を出し、“玉砕の島”として広く知られている。硫黄島旧島民の戦死者は、軍属として徴用された160人のうち、82人が含まれている。硫黄島の旧日本軍死者は約2万人。旧島民も軍属として残された男性たち82人は戦死した。

 小笠原村が主催して行われている「硫黄島墓参・訪島事業」は、平成9年から始められ、以後、毎年追悼式が催され今年で9回目となる。         

  ◇  ◇

 太平洋戦争の激化に伴い、昭和19年、小笠原諸島が最前線基地となり、6.886名(硫黄島民1.098名)の小笠原島民は、軍の命令で手荷物は風呂敷包み二個に制限され、着の身着のままで強制疎開をさせられた。このうち、15歳から60歳までの男子825名(硫黄島民160人)が軍属として島に残された。

 硫黄島は、太平洋戦争における日本本土での最初の戦場となった激戦地で、日・米軍合わせて2万7千余の犠牲者を出し、“玉砕の島”として広く知られている。硫黄島旧島民の戦死者は、軍属として徴用された160人のうち、82人が含まれている。硫黄島の旧日本軍死者は約2万人。旧島民も軍属として残された男性たち82人は戦死した。

 小笠原村が主催して行われている「硫黄島墓参・訪島事業」は、平成9年から始められ、以後、毎年追悼式が催され今年で9回目となる。


(2005.06.8)

 小泉首相19日に硫黄島へ 

   戦没者追悼式出席

   現職の首相が出席するのは初めて。


 小泉純一郎首相は7日、太平洋戦争中の激戦地硫黄島(東京都小笠原村)で今月19日に開かれる政府主催の「硫黄島戦没者追悼式」に出席する方針を決めた。首相は7日夕、官邸で記者団に「一度は慰霊(硫黄島)に行ってみたいと思っていた。激戦地で、多くの方が亡くなっていますし,すさまじい苛烈(かれつ)な戦闘地だったんだなと感じた。」と述べた。硫黄島戦没者追悼式に現職の首相が出席するのは初めて。

 厚生労働省が進めてきた「戦没者の碑」改修工事の完了式典と併せて、終戦六十周年の節目でもあることから、「大々的に式典を執り行う」予定で、そのほか政府高官の招待も検討している(同省外事室)。首相は同日午前11時から開かれる式典に戦没者遺族や尾辻秀久厚労相らとともに列席し、追悼の辞を述べる。さらに島内の戦跡を訪れる予定。

 小笠原村は、これとは別に村が主催する「硫黄島慰霊訪島事業」で、硫黄島戦没者遺族、旧硫黄島民、小笠原村民ら150人が参加して、17日午前10.00から「平和祈念墓地公園」で戦没者追悼慰霊祭を行なう。

 同島では今年3月、日米合同の慰霊式典が行われ、戦闘に参加した日米双方の退役軍人や遺族、在沖縄海兵隊員ら、例年の約2倍に当たる約800人が参列。米軍は昭和20年2月19日、硫黄島に上陸。約一カ月間にわたる戦闘で、日本軍21.900人、米軍約7.000人が戦死した。1994年硫黄島には天皇、皇后両陛下が訪れている。


 (2004.9.24)

   8回目の訪島事業----小笠原村

        硫黄島で戦没者追悼式 

     島民遺族ら「村立平和祈念墓地公園」で碑に献花


 

 父島から南へ250キロ離れ、太平洋戦争の激戦地となった小笠原諸島の硫黄島(小笠原村)で24日、小笠原村が主催する戦没者追悼慰霊式が開かれた。今年は戦没者遺族や硫黄島旧島民、小笠原村民と小笠原中学校生徒40人(教職員含む)や来賓、報道関係者ら合わせ計145人が「おがさわら丸」で渡島した。今回の硫黄島訪島事業は、6月に行われる予定だったが、台風16号で中止となっていた同事業が延期して行われた。

 式典には、小笠原村からは森下一男村長、池田望村議会副議長をはじめ、父・母島の中学生(2年生)、一般島民も参加。小笠原在住旧硫黄島民、都内在住の遺族ら参加者全員が「村立平和祈念墓地公園」で碑に献花し、戦没者を慰霊した。

 この硫黄島訪島事業は、厚生省による遺骨収集事業、東京都の墓参事業とは別に、小笠原村の中学生の「平和教育」の事業などを加味した大規模墓参事業として、戦後50年を迎えた95年に企画されて以来、恒例となり、今回で8回目となった。

 森下一男村長は式辞で「日・米両軍合わせ2万7千人余の尊い命を失い、未だ一万一千余柱の日本軍将兵の遺骨が眠っています。戦後半世紀を過ぎた今日でも島内各所に激戦の傷跡が残り、その惨劇を私たちに語りかけています。硫黄島の戦後は決して終わっておりません。小笠原村の戦後はいまだ続いているのです」と、述べ、帰島問題など戦後処理問題の早期解決と恒久平和を訴えた。

 岡本良晴小笠原在住旧硫黄島民の会会長は式辞の中で、「御霊よ、どうぞ安らかに眠って下さい。私たちは最後の、最後の一柱をお迎えするまで(遺骨収集を)やる遂げることを約束します----」。と、声を振り絞った。さらに「戦没された方々の祖国への熱い思いを改めて深く心に刻み、この“玉砕の島・硫黄島”から「平和」の二文字を発信し続け、末代まで伝えて、恒久平和の実現に全力を尽くすことを固く誓う」と決意を述べた。

 式典後、参加者ら全員は25、26日の2日間にわたって米軍の激しい艦砲射撃で地形が変わった摺鉢(すりばち)山や旧島民墓地、将兵慰霊碑に献花・巡拝し、旧海軍が病院として使っていた医療科壕など戦跡を見学した。

 今回の墓参で、硫黄島旧島民や戦没者遺族の人たちから「私たちは、すでに高齢化して墓参も、年々ままならず、亡くなる人も多い」「 戦前住み慣れた住居も跡形もなく荒れ果て、その所在を探し当てることさえ、困難をきわめている。せめて、地名版の設置でもしてほしい」などの声を聞いた。また、「1柱でも多くのご遺骨を日の目に出してあげたい。遺骨収集作業は我慢と根気。重機と人手があればもっとはかどるのに---。」と、高齢にむち打って収集作業をしていた旧島民の1人が、絞り出すように胸の内を訴えていた。

 巡拝に同行して、地熱が50度を超す酸欠の地底で、陽の目を見ないでいる一万一千余柱の遺骨を早急に収集し、硫黄島の帰島問題など戦後処理に結末を付けなければ、国自体の“戦後”は終わらないと改めて実感した。

 台風21号の影響で予定を繰上げた墓参団一行は25日、午後3時45分からおがさわら丸船上で「洋上慰霊祭」を行なったあと、父島に向けて帰島した。

【硫黄島にて2004.9.24・山縣 浩】


(2004.6.30)

  硫黄島の米離着陸訓練 

     爆音、絶え間なく


◇神奈川・厚木を離れ、9割集中

 東京から真南1.250キロの太平洋上に浮かぶ硫黄島(東京都小笠原村)で、神奈川県横須賀港を母港とする米航空母艦「キティホーク」の出航直前に、搭載機FA18ジェット戦闘機の離着陸訓練が行われている。米軍は横須賀から近い厚木基地での訓練を希望しているが、騒音に対する厚木周辺住民の反発が強く、訓練の9割は一般住民のいない硫黄島で実施される。かつての激戦地で今も、日米安保条約の最前線ともいえる軍事訓練が続く。

 「キーン、グウォー」。ものすごい爆音を残し、FA18戦闘機が時速250キロで目の前を横切る。滑走路に着地する直前にエンジンを全開するため、着地直後の噴射音が地鳴りのように響き渡り、いつまでも耳から離れない。これが45秒間隔で2機目、3機目と繰り返される。米軍が用意してくれた耳栓なしでは立ってさえいられない。

 キティホーク艦上では、甲板全長200メートルのうち着地に使える距離は45メートルしかない。4本の強固なワイヤのどれかに機体を引っ掛けて強引に減速・着地させるが、高速のうえ滑走距離が短いため、熟練パイロットでも定期的な訓練が必要となる。

 航行中は艦上で訓練が出来るが、横須賀入港中はどこか陸上で代替の訓練を行うことになる。陸上訓練では、降下角度の適正さや指定された着地点の正確さで、検査官が4・0〜1・0まで得点を付けるが、ワイヤは張らず、車輪が滑走路に着いた直後にエンジンを全開させ、飛び立つ(タッチ・アンド・ゴー)。4〜6機で同じルートを繰り返し飛ぶ。

 昼間は滑走路の中央線や周囲の状況が見やすいが、どのパイロットも「夜間の難易度は昼間とは比べものにならない」という。滑走路に点滅する明かりを目安に、降下角度と速度を定めて着地点を目指す。これが夜間発着訓練(NLP)だ。

◇慰霊碑上空に舞う戦闘機

 米軍が代替訓練地を求める背景には、日米安保条約に基づく日米軍事同盟関係がある。日本側には同盟関係の自覚があるからこそ厚木でのNLP全廃を持ち出せない。かといって代替地は浮かばず、事態は隘路(あいろ)に陥っている。在日米軍の再編に伴い横須賀から岩国(山口県)に基地が移転された場合も、硫黄島での訓練は続くとみられる。

 硫黄島は太平洋戦争での最激戦地の一つだった。当時島には3本の滑走路があり、米軍にとってはグアム・サイパンから日本本土への中継基地となる要衝だった。1945年2〜3月の戦いで日本軍は2万人、米軍も7000人の死者を出した。この戦いで摺鉢山(すりばちやま)に星条旗を立てた米兵の写真がピュリツァー賞を受賞し、第二次大戦で最も有名な写真となった。

 摺鉢山の頂には日米双方の慰霊碑がそれぞれ建てられ、当時米軍が上陸した浜を見下ろす。かなたには飛行場が見え、上空には訓練中のFA18戦闘機が飛び回る。本来、兵の霊を悼み、不戦を誓った地に、訓練とはいえ戦闘機が飛来するのは歴史の皮肉だ。

 ハリウッドはこのほど、クリント・イーストウッド監督で摺鉢山に星条旗を立てた海兵隊員6人のその後を追ったルポ「硫黄島の星条旗」の映画化を発表した。

 半世紀以上経てもなお、硫黄島への思いは日米で異なったままだ。その差が同盟関係を基盤とするNLPの訓練基地問題にも、映し出されているかのようだ。

 ◇代替地ないまま、15年続く暫定措置

 在日米軍司令部作戦参謀のギリス大佐は、硫黄島は(1)横須賀港から余りに遠い(2)飛行中異変が起きた場合不時着場所がない(3)滑走路が1本しかない(4)夏は台風が多く訓練ができない−−などから「日本側に代替訓練地を希望している」という。米軍は厚木基地で実施したいが、住民への騒音に配慮してできるだけ回数を減らした上、訓練機を2機に減らし、飛行高度も低くしているという。

 厚木の騒音問題から、日本側は15年前に硫黄島を「暫定的」にNLP訓練地としたが、他に代替地がなく事実上固定化しつつある。本州ではどこでも騒音問題が起き、三宅島移転案も噴火と住民の反対でほぼ消えた。

 米海軍は空母を計12隻持ち、米国内ではいずれも母港から100マイル(160キロ)以内に陸上訓練基地を確保している(硫黄島は700マイル)。

 騒音問題では、厚木基地周辺で騒音が75デシベル(睡眠障害の基準は45デシベル)を超える地域の居住者が51万人なのに対し、同等の騒音とされる米バージニア州オシアナ海軍基地周辺の居住者は8万人。米軍からすれば「硫黄島のように条件の悪い訓練地はあり得ない」となるが、日本側からすれば「本土でNLPの適地などあり得ない」となる。

 ギリス大佐は「本土から遠くない海上基地」を妥協案として示唆したが、膨大な建設費は日本側負担となり、過密気味の海上輸送航路との調整が必要となる。沖縄県でも海上基地構想が浮かんだが実現は難しく、簡単に進む話ではない。

 米軍によると、空母を保持する国は他に英仏のみで(英は垂直離陸機で陸上訓練不要)、12隻所持の米国が突出。日本にとってはあまりに強大な軍事大国との不均衡な同盟関係となっている。

 ■自衛隊が管理する硫黄島

 東京とグアムのほぼ中間点に位置し、小笠原諸島唯一の平たんな台地の島で、面積は22平方キロメートル(東京都品川区とほぼ同じ)。第二次大戦末期、米軍はグアム・サイパンからの日本空爆中継基地として重視。日本軍は全長18キロもの地下壕(ごう)を掘って防戦したが壊滅した。

 45年2月の米軍上陸後、南端の摺鉢山(標高166メートル)に星条旗を掲げる写真(J・ローゼンソール撮影)はニューヨーク・タイムズ紙トップを飾り、当時米国民を熱狂させた。この写真は今も米国の歴史教科書に掲載され、アーリントン国立共同墓地には、この写真を基にした巨大な銅像が建てられている。68年に米国から返還され、現在は海上・陸上自衛隊が管理しており、一般住民はいない。

 日米両軍関係者が85年に建てた碑には「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以って戦ったことを銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之を繰り返すことのないよう祈る次第である」と記されている。

【硫黄島で2004年7月26日】


(平成15年6月)慰霊祭

 「第7回硫黄島墓参・訪島事業」1  

   小笠原諸島返還35周年記念

   平和への誓いを新たに


 昭和19年に島民の強制疎開が行われた中、島民の中の主に若者たちが軍属として徴用されて島に残された。その内83名が軍と運命を共にして犠牲となっている。

 硫黄島での戦死者の数は2万129名、現在まで発見された遺骨は8千3百94柱。いまだ半数以上の1万1千7百余柱の遺骨の多くが、全長18・、壕口が数千カ所はあるといわれる壕の奥深くに、追い込まれて死亡したものと推測されている。

 硫黄島旧島民は、戦没者遺族であるとともに、いまだに帰島が許されていない故郷への望郷の念が強く、高齢化していく中でも、毎年遺骨収集や墓参に参加し続けている人達も多い。

 この日行われた慰霊祭では、追悼の言葉が各代表から捧げられ、参列者全員による献花が行われた。旧硫黄島民代表の岡本良晴さん【写真上】は、追悼の言葉の中で、「つい先日、遺骨収集作業の中でまた11柱の御遺骨を見つけ出すことが出来ました。(中略)半生を遺骨収集に捧げた故宮川典男氏が、50度の地下壕に潜り、地を這い、まさしく岩に爪をたてるがごとき、遺骨収集作業に身を投じられたあの姿と志を、何としても継承していくのが、今生きている私達の務めであると思い、ここ硫黄島に通い続けていますが、今後、高齢化していく私達のバトンを次に受け継いで下さる若者たちが、必ずや現れることを切に念じて止みません。(後略)」と、20年来、遺骨収集作業に携わってきた遺族らの、叫びにも似た思いが、聞く者の胸を打ち、目頭を押さえる姿があちこちで見られた。


伝えたい 戦争の悲惨さと 平和の尊さを

  生きた平和教育に今年も中学生が参加


   

 今年も、小笠原村の中学2年生(父・母島)15名は、硫黄島の墓参に参加し、今なお遺骨が残る島内を巡拝、遺族の思いにも触れる、生きた平和教育の体験をした。

 慰霊祭では、母島中の大友明洋君、山口強太郎君、小笠原中の北條美和さん、猪村元君らが「硫黄島を語り継ぎ、争いごとの無い豊かな社会を築いていきます(略)」と平和への誓いの言葉を述べた。その後、戦死者を偲び、「故郷の廃家」を献歌した。

 22日の夜は船内で旧硫黄島民の方達と交流。戦争の悲惨さや、戦前の生活の様子に真剣に聞き取っていた。生徒らは感想として「こんなきれいな島で戦争があったことが信じられないが、今なお硫黄島は遺族にとって悲しみの島」「壕内の暑さに、兵隊の方の大変さを知った」などの感想を述べていた。


『母ちゃん姉ちゃん』

   3姉妹の弟への思い


 壕のひとつから出てきた、相川恵江さん(78)は海を眺めながら「この青い海を、弟も見たかと思うと切なくて…」。と、涙を浮かべた。

 毎年この墓参事業で姿を見かける三人の姉妹、相川恵江さん(78)、奥山トキ子さん(70)、奥山末子さん(68)がいる。

 硫黄島で生れ育った2男6女の兄弟姉妹の内の三人で、末子さんが生れてすぐ亡くなった母親の代わりに、恵江さんは弟や妹の面倒を懸命にみてきた。その2人の弟、千里さん16歳と駿さん18歳が軍属として島に残り戦死した。「この砂の下にまだ遺骨があるかと思うと、地面を踏むのもためらわれる。」「お萩をほおばりお茶をおいしそうに飲む姿が忘れられない」と、母親代わりの“母ちゃん姉ちゃん”の恵江さんら3姉妹にとって、58年経った今でも、弟達は年をとっていない。


 58年間の胸のつかえ

    神奈川県から参加 本多佳治さん


 神奈川県から58年ぶり、戦後初めて娘さんと一緒に墓参に参加した本多佳治さん(82)は、当時飛行機整備の任務で19年に3ヶ月間硫黄島戦を経験。「永年胸につかえていたものが、今回の墓参によってようやく下り、気持ちが晴れました」と目を潤ませていた。「玉砕になってしまい申し訳ない」と永年黙して語らなかった父の胸の内を、53歳になる娘さんは、この同行の旅で初めて聞いたという。

 今回の慰霊の旅では、一日目は海上模様が悪かったことから、やむなく上陸が不可能となったが、翌日二日目には波も穏やかになり、午前8時、全員が艀に乗り硫黄島の土を踏んだ。一行は計画されていた慰霊式のほか、天山慰霊碑や鎮魂の丘、すり鉢山など島内を巡拝した。当日は、参加者の希望もあって、1日目のスケジュールも合わせて消化したため駆け足の巡拝となった。

 今回初めて福岡から参加した岩下鉄男さんは「一日でも上陸できて嬉しい。きっとここに眠っている英霊がわたしの思いを叶えてくれたんでしょう」とハンカチで目頭を押さえていた。 

 午後4時30分、すべてのスケジュールを終えた一行は「おがさわら丸」に帰船。6時からの「洋上慰霊」では、白菊の花を海に向かって献花し、黙とう。船は別れを惜しみながら硫黄島を一周。父島に向け帰路についた。


(2003.6.21)

  小笠原諸島返還35周年記念

   「第7回硫黄島墓参・訪島事業」 2


【硫黄島=山縣 浩】 東京から1.250キロ。父島から南へ250キロ離れた硫黄島(東京都小笠原村)は、太平洋戦争中国内で真っ先に激戦地となった。今年で第7回目となる「小笠原村訪島事業・戦没者慰霊の旅」が6月22日、硫黄島平和記念公園で戦没者慰霊式典が開催された。式典には、戦没者遺族や硫黄島旧島民らのほか、小笠原村からは嶋田房蔵教育長、村議会議員、児山貴一小笠原総合事務所長、小笠原支庁長(代理)らのほか、硫黄島旧島民51人、父・母島の中学生15人、一般島民18人、硫黄島協会23人も参加した。

 今年も墓参団と共に、「慰霊の旅」に同行した。強烈な陽射しが降り注ぐ硫黄島は、58年前、日米両軍の激しい死闘があったとは思えぬ穏やかな表情だった。島を訪れた21日、「天気晴朗なれど波高し」と、あいにくの海上模様のため上陸が不可能となってしまった。

 翌朝、上陸可能ということで墓参団はほっと胸をなで下ろす。朝一番で上陸すると、昨年まで利用していた桟橋が使えなく、訪島当初の隆起した砂浜へ上陸した。 

 船中で、硫黄島旧島民の人から、訪島直前に11柱の遺骨を新たに発見したという話しを聞いた。厚生省による遺骨収集は、島が日本に返還された昭和43年以後、毎年1・2回行われているが、これまでに見つかった遺骨は約8千余柱。うち氏名が特定できて遺族の元に戻ったのは約80余柱に過ぎない。硫黄島の旧日本軍死者は約2万人。旧島民も軍属として残された男性たち82人が戦死したという悲劇の島だ。

 硫黄島は、太平洋戦争の激化に伴い、昭和19年、小笠原諸島が最前線基地となり、6、886名(硫黄島民1、098名)の小笠原島民は、軍の命令で手荷物は風呂敷包み二個に制限され、着の身着のままで強制疎開をさせられた。このうち、15歳から60歳までの男子825名(硫黄島民160人)が軍属として島に残された。

 神奈川県から58年ぶりに戦後初めて娘さんと一緒に墓参に参加した本多佳治さん(72)は、「永年胸につかえていたものが今回の墓参によってようやく気持ちが晴れました」と目を潤ませていた。

 戦時中、米軍の襲来を予想していた日本軍は、硫黄島の至るところに壕を堀り“地下要さい”化を目指していた。現在も数多く残されている壕のひとつに足を踏み入れてみた後で、相川恵江さん(78)は涙声で語った。「この青い海を、弟も見たかと思うととても切なくて…」。と、しばし、黙考。涙を懸命に押さえていた。

 今回の慰霊の旅では、一日目は海上模様が悪かったことから、やむなく上陸が不可能となったが、翌日二日目には波も穏やかになり、午前8時、全員が艀に乗り硫黄島の土を踏んだ。一行は計画されていた慰霊式のほか、天山慰霊碑や鎮魂の丘、すり鉢山など島内を巡拝した。

 当日は、参加者の希望もあって1日目のスケジュールも合わせて消化したため駆け足の巡拝となった。今回初めて福岡から参加した岩下鉄男さんは「きっとここに眠っている英霊がわたしの思いを叶えてくれたんでしょう」とハンカチで涙を押さえていた。

 すべてのスケジュールを終えた慰霊の旅の一行は午後4時30分、「おがさわら丸」に帰船。6時から「洋上慰霊祭」を終えた後硫黄島を一周。別れを惜しみながら父島に向け帰路についた。


 (2002.6.23)

「第6回硫黄島墓参・訪島事業」 戦没者追悼慰霊祭  「平和祈念会館」竣工式

最初の戦場となった“激戦地 硫黄島 ”今なお残る“戦後” 


 小笠原村は、今年で6回目となる戦没者追悼慰霊祭を、6月21日、村立平和祈念墓地公園で行った。小笠原村が主催して行われている「硫黄島墓参・訪島事業」は、平成9年から始められ、以後、毎年追悼式が催されている。

 今回の訪島事業には、防衛庁や厚生省、東京都からの来賓のほか、小笠原在住旧硫黄島民、硫黄島協会、122名に加え、「平和教育」の一環として行われてきた硫黄島訪問を、今年から課外事業として取り組みを始めた村立小笠原中学校と母島中学校の生徒ら24人も参加した。さらに、今回の慰霊の旅では硫黄島に建設された小笠原村硫黄島宿泊施設の「平和祈念会館」完成式典も合わせて行われた。

 式典は午前9時から、硫黄島旧島民慰霊碑がある「村立墓地記念公園」で始まった。式典の挨拶で宮澤昭一村長は、「安らかにお眠り下さい。わたしたち小笠原村民並びに戦没者遺族は、祖国の平和と発展のため一層努力する覚悟です」と追悼の言葉を述べた.。

 また、小笠原在住硫黄島旧島民を代表して宮川章会長と岡本良晴副会長は、「悲惨な戦争が終わり、五十七年の月日が流れました。五十七年前、小笠原村のこの小さな島で、世界の歴史に残る日米両国の激しい死闘が繰り返されたのであります。私たち小笠原村民は玉砕の島「硫黄島」を決して忘れてはなりません。悲惨な戦いの果てに、私たちのお父さんやご主人、ご兄弟、諸先輩は戦死されたのであります。その無念は、この上なき痛恨の極みであったことでしょう。本当にご苦労様でした。今こそおいしいお水を沢山飲んでください。あなたたちの犠牲の上に今の日本の平和、小笠原村の平和があるのです。本当に有り難うございました。」と慰霊に向かって無念の思いと感謝の気持ちを切々と述べた。

 さらに、「戦後五十七年経った今でも一万一千余柱ものご遺骨が地下をさまよっております。私たちは厚生労働省、防衛庁、東京都、小笠原村、日本遺族会、硫黄島協会の皆様と協力し合って、最後の、最後の1柱が見つかるまで全力を尽くして遺骨収集に取り組み、必ずお迎えに来ることをお約束いたします。」と追悼の辞を述べると共に、今もなお残る慰霊に対して誓った。

 また、最後に「本日は大変うれしい事があります。私たち硫黄島旧島民が長い間待ち望んでいた「硫黄島平和祈念会館」が完成し、本日開所式が行われる運びとなりました。硫黄島旧島民の永年の夢を実現して頂いた小笠原村に対し、深く、深く感謝する次第であります。そして、今晩は懐かしい皆様と戦前の豊かであった硫黄島の生活や幼い頃の思い出話に花を咲かそうと思います。」と話しを結んだ。                   

 ◇  ◇

 父島から270キロ離れた日本最南端の小島“硫黄島”へ6月21日、22日の二日間、硫黄島旧島民、小笠原島民、小笠原中学生ら150人が墓参のため今年も島を訪れた。 のどかな自然とは対照的な島は、米軍との死闘があったとは思えぬ穏やかな表情だった。トーチカの残がいが、「玉砕」(45年3月)の傷跡として残り、57年目の今も1万余柱以上の遺骨が地中に眠っている。しかし、猛烈な艦砲射撃で、摺鉢山が低くなったというが、かつての集落もほとんど跡形を止めていない。

 硫黄島を訪れた2日間は好天に恵まれ、強烈な陽射しが肌を刺す。じっとしていても汗が噴き出す暑さに当時の日本軍将兵の苦悩が偲ばれる一方、太平洋戦争の末期、この島で日米合わせて約27.000人が戦死した。1944年7月に強制疎開で島を去ってから、返還後何度も訪ねた人も多く、硫黄島旧島民慰霊碑に水や果物を手向けていた。

   ◇  ◇

 太平洋戦争の激化に伴い、昭和19年、小笠原諸島が最前線基地となり、6.886名(硫黄島民1.098名)の小笠原島民は、軍の命令で手荷物は風呂敷包み二個に制限され、着の身着のままで強制疎開をさせられた。このうち、15歳から60歳までの男子825名(硫黄島民160人)が軍属として島に残された。

 硫黄島は、太平洋戦争における日本本土での最初の戦場となった激戦地で、日・米軍合わせて2万7千余の犠牲者を出し、“玉砕の島”として広く知られている。硫黄島旧島民の戦死者は、軍属として徴用された160人のうち、82人が含まれている。 硫黄島の旧日本軍死者は約2万人。旧島民も軍属として残された男性たち82人は戦死した。 

            【2002.6.21 硫黄島=山縣 浩】  


(2002.6.24)

 硫黄島一時滞在施設が完成!

  「小笠原村硫黄島平和祈念会館」      

 竣工式典とお披露目 総工費は2億6千万円


 小笠原村は、これまで遺族や硫黄島旧島民らから硫黄島でのゆとりある墓参のための宿泊施設をと、今回の「硫黄島訪島事業」にあわせ、6月21日、硫黄島旧島民、遺族、来賓らを招き「小笠原村硫黄島平和祈念会館」の完成を祝い竣工式典と建築規模などをお披露目した。

 総工費は約2億6千万円と当初予算より1千500万円増えた。同宿泊所は、小笠原村と防衛庁,防衛施設庁との間で施設建設と村の土地返還についても合意が取り交わされ、計画が実現した。

 同宿泊所の規模は、 敷地面積 1,000平方メートル(303坪)、建築面積521平方メートル(158坪)、鉄筋コンクリートで 宿泊室は10室(10畳)、最大宿泊人数は40人(職員は除く)とし、そのほか、上水は、地下の貯留槽(約220m3)に雨水を貯め、ろ過装置で処理して使用する。トイレの洗浄水はそのまま中水として利用。汚水は浄化槽で処理。また、電気については自衛隊施設から、供給を受ける。設計は小笠原村、鹿島デザイン。施工は鹿島建設と日章建設のJV。建設期間は昨年7月から今年の3月までの約8ヶ月をかけて完成した。          

 帰島が許されない硫黄島で、ゆとりを持って墓参したいという旧島民の念願がひとつ実現した中、在住硫黄島旧島民の会副会長の岡本良晴さんは、「プレハブでもいいから造らせてほしいと、防衛施設庁、厚生省等に要望を続けてきました。それがようやく完成ということで素晴らしい施設ができ大変喜こんでいます。ただひとつ残念なことは、永年遺骨収集に精魂を傾けてきた宮川典男名誉会長が、昨年亡くなる直前まで「また硫黄島に行くんだ」と言っておられたが、きょうの日まで元気でいてほしかった」と声を詰まらせていた。


平成13年(2001.6.22)

  平成13年「硫黄島訪島事業・戦没者慰霊の旅」

      56年目の夏 まだ残る1万2千余柱の遺骨


 太平洋戦争末期、日本兵と住民合わせて21.000人以上の戦死者を出した激戦地、硫黄島(小笠原村)で20日、小笠原村主催の戦没者慰霊式典が行われ、硫黄島旧島民、戦没者遺族、一般島民と小笠原村立中学校生徒ら約140人が戦死者のめい福を祈るとともに平和への誓いを新たにした。 一行は定期船「おがさわら丸」で、19日午後9時、父島二見港を出発し、21日明け方、硫黄島に到着。午前8時から“はしけ”に分乗して、島の北側にある釜岩の砂丘に次々と上陸した、午前中には、「鎮魂の丘」、「摺鉢山」などを巡拝した。

 島に米軍が上陸したのは昭和20年2月。物資補給を絶たれながら戦闘は約一か月続いた。戦死者のうち約8.000人の遺骨が収集され、平成13年現在、収集されずにいる戦没者の遺骨は未だ約12.000余柱も残されている。小笠原村が主催して行われている「硫黄島墓参・訪島事業」は、平成9年から始められ、以後、毎年追悼式が催されている。 

 式は正午過ぎから、硫黄島旧島民慰霊碑がある「村立墓地記念公園」で始まった。式典の挨拶で宮澤昭一村長は、「安らかにお眠り下さい。わたしたち小笠原村民並びに戦没者遺族は、祖国の平和と発展のため一層努力する覚悟です」と追悼の言葉を述べた.

          ◇     ◇

 「安らかに眠って下さい」…。小笠原中学校生徒らが“千羽鶴”と“飲料水”を戦没者の霊前に手向る

 村立小笠原中学校は、「平和教育」の一環として、今年も2年生18人が参加。硫黄島の戦争の悲惨さを学び、平和の使者として自分たちに何が出来るのか考えようと、太平洋戦争の激戦地、硫黄島を訪れた。

 「安らかに眠って下さい」…。硫黄島の「村立平和記念公園墓地」にある戦没者慰霊碑で、父・母島小笠原中学校生徒たちが丹精込めて作った手製の“千羽鶴”と“飲料水”を戦没者の霊前に手向けた。生徒たちは、「硫黄島慰霊訪問」にあたり“千羽づる”を作ったり、同島の歴史を知るために、硫黄島旧島民の宮川章さんから戦前の島の歴史、遺骨収集の話しなどを聞いて学習していた。

 小笠原村の将来を担うべき、硫黄島を訪れた村立父・母中学校生は、引率教諭等とともに過酷な時代に思いを馳せ、体験を通し世界平和と小笠原村の発展の為に務めようと、想いを新たに祈念墓地公園に眠る英霊に向かって誓った。


   NEW!(2001.6.22)

 “戦後処理”残る硫黄島

   一刻も早い遺骨収集を願う---戦没者遺族ら


 小笠原村は、21世紀初頭の慰霊祭を、6月20日、平和祈念墓地公園で行った。村事業として毎年恒例となったこの事業は、今年で5回目となる。小笠原在住旧硫黄島民、硫黄島協会、小笠原島民ら118名に加え、「平和教育」の一環として村立小笠原中学校と母島中学校の生徒ら21人も参加した。今回の慰霊の旅では、今年7月から硫黄島に建設される「小笠原村硫黄島宿泊施設」敷地のお披露目式も行われた。【山縣 浩】                               

 今年も墓参団と共に、「慰霊の旅」に同行した。強烈な陽射しが降り注ぐ硫黄島は、56年前、日米両軍の激しい死闘があったとは思えぬ穏やかな表情だった。島を訪れた、20日、朝一番で上陸すると、収集作業をしていた宮川章さん(硫黄島旧島民の会会長)から、自衛隊基地内の格納庫付近にある「千田濠」から、新たに13柱の遺骨が発見されたと聞いた。早速、発掘現場へ急いだ。

 現場に立つと「戦後」がそのまま残っているような気がしてならなかった。千田部隊はかなり大きな部隊編成であったと聞き、未だ多くの未集収の遺骨があると想定される。

 遺骨収集作業は、旧島民や元軍人らの協力と、当時の記憶が頼り。これらの人たちも年々高齢化が進み、過重な作業もままならず、先行きに不安な気持ちが募るという。旧島民で10年以上も協力している岡本良朗さん(小笠原・父島)は、「戦没者や遺族のことを考えるとやめられない」と語る。

 地熱で50度という地下ごう内の作業は過酷で、「壕内で作業を30分も続けていると心臓が苦しくなり倒れそうになる」という。

 厚生省による遺骨収集は、島が日本に返還された昭和43年以後、毎年1、2回行われているが、これまでに見つかった遺骨は約8千余柱。うち氏名が特定できて遺族の元に戻ったのは約80余柱に過ぎない。硫黄島の旧日本軍死者は約2万人。旧島民も軍属として残された男性たち82人が戦死した。

 太平洋戦争の激化に伴い、昭和19年、小笠原諸島が最前線基地となり、6、886名(硫黄島民1、098名)の小笠原島民は、軍の命令で手荷物は風呂敷包み二個に制限され、着の身着のままで強制疎開をさせられた。このうち、15歳から60歳までの男子825名(硫黄島民160人)が軍属として島に残された。

 硫黄島は、太平洋戦争における日本本土での最初の戦場となった激戦地で、日・米軍合わせて2万7千余の犠牲者を出し、“玉砕の島”として広く知られている。硫黄島旧島民の戦死者は、軍属として徴用された160人のうち、82人が含まれている。

 墓参中に様々な訴えを聞いた。しかし、最もこだわり続けてきているのは遺骨の収集だ。大量の遺骨が残る限り、この島はいつまでも「戦後」に区切りがつかないのではないだろうか。それは、旧島民や遺族の思いにも通じると思う。


平成12年(2000.6.20)

  硫黄島「硫黄島訪島事業戦没者慰霊の旅」  

         村立平和祈念墓地公園開設10周年記念

硫黄島=山縣浩】 東京から千二百五十キロ離れた小島、硫黄島(東京都小笠原村)。太平洋戦争の末期、この島で日米合わせて約二万七千人が戦死した。今回実施された「小笠原村訪島事業・戦没者慰霊の旅」には、硫黄島旧島民、戦没者遺族、小笠原村中学生たち合わせて百三十五人が、墓参のため訪れた。一九四四年七月に強制疎開で島を去ってから、初めて訪ねた人もいた。のどかな自然とは対照的なトーチカの残がいが、「玉砕」(四五年三月)の傷跡として残り、五十五年目の今も一万二千柱以上の遺骨が地中に眠っている。墓参団に同行し、旧島民の終わらない「戦後」を強く感じた。


 硫黄島旧島民慰霊祭

 小笠原 中学生の「平和教育」も


 父島から南へ二百五十・離れた太平洋戦争の激戦地・硫黄島に六月二十、二十一日の両日、戦没者遺族や硫黄島旧島民ら百三十五人が上陸した。小笠原村からは宮澤昭一村長、稲垣勇村議会議長をはじめ村議会議員、相川一夫小笠原総合事務所長、谷口哲巳小笠原支庁長、父・母島の中学生、一般島民も参加。一行は、硫黄島旧島民慰霊祭で戦没者の霊を弔ったほか、出身集落への里帰り、島内見学などを行った。 

 今回の訪島は小笠原村と硫黄島旧島民の会(宮川章・会長)、戦没者遺族、生還者の団体である硫黄島協会(遠藤喜義・会長)との合 同事業。厚生省による遺骨収集事業、東京都の墓参事業とは別に、小笠原村の中学生の「平和教育」の事業などを加味した大規模墓参事業として、戦後五十年を迎えた九十五年に小笠原村で企画されて以来恒例となり、これで六回目となった。

 「おがさわら丸」で父島二見港を六月十九日に出発した訪問団一行は、翌二十日、硫黄島に到着。同島には艀で上陸し、駐留自衛隊と鹿島建設の協力を得て島内を移動。旧島民や中学生、硫黄島協会関係者は島北部の天山戦没者慰霊碑、摺鉢山(パイプ山)のほか、折から行われていた、遺骨収集発掘作業現場などを見学。午後には、設立10周年を迎えた西部の村立平和祈念墓地公園(旧島民墓地)で、島民戦没者の慰霊式典を行った。

 翌日、海上模様が急変し、計画されていたスケジュールは中止となり、午前八時、「おがさわら丸」で硫黄島を一周。別れを惜しみながら父島に向け帰路についた。


(6.23)  「歴史の教訓を--」追悼文で  

    帰島、遺骨問題の早期解決を

 村立平和祈念墓地公園開設十周年記念式典で、宮澤村長は、平和祈念墓地公園の十周年を祝う式辞を述べたあと、「この島には、一万二千余の未収集の遺骨が眠っている。戦後五十余年、硫黄島の戦後の区切りはついておらず、小笠原村は引き続き遺骨収集について、国に働きかけていきたい」とし、戦前硫黄島に暮らし、亡くなった旧島民御霊に対して「未来永劫にわたる平和の続く事を祈念します」と挨拶した。

 また、相川小笠原総合事務所長は、「先の大戦では、ひたすら祖国の繁栄を念じつつ、数多くの同胞が、国の内外において散華した。代表的な激戦地となったここ硫黄島に於いても、硫黄島旧島民を含む数多くの貴い命が失われ、御霊となり、わが国の礎となった。このことは、永遠に忘れる事のできない深い悲しみであり、万感胸に迫るものがあります」。と戦没者の苦悩の心情に触れた上で、「戦没者諸霊の安らかならん事を願うとともに、御遺族の御苦労、ご努力に対して強い同情と心からの敬意を表したい」と述べた。

 宮川章さん(小笠原在住硫黄島旧島民の会会長)は旧硫黄島民を代表して、「私達旧島民は、一日も早く故郷に帰り、私の兄を含め、八十二名の島民の英霊を供養すると共に、この島に眠っている遺骨を収集していく責務があるのです」と述べ、「私達が肝に明記すべき事は、歴史の教訓を学び、未来を望んで人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことである」と述べた。

 式典のあと宮川さんは、昭和十九年六月、当時十一歳で強制疎開の夜のことを今でも鮮明に憶えていると言う。六発の魚雷が島をめがけて打ち込まれ、目の前で船は沈没。翌日、命辛々ふろしき包み二個を許され、強制疎開を強いられたと切々と訴えていた。


(6.22)◆百四十四柱の遺骨が新たに収集

   地熱40度。地下ごう内の作業は過酷

  「戦後」が残る遺族たち  高齢化も懸念!      【硫黄島=山縣 浩】


 「硫黄島慰霊の旅」墓参団の一員として、六月二十日、硫黄島の土を踏んだ。同島は、五十五年前の昭和十九年三月、日米両軍の激しい死闘があったとは思えぬ穏やかな表情だった。一歩島に上陸すると硫黄の臭いがツンと鼻についた。米軍の上陸で「沖合いが艦船で真っ黒に埋まっていた。猛烈な艦砲射撃で摺鉢山が変形した」という生還者の声を聞いた。島は一面ギンネムに覆われ、人家の跡にはわずかにガジュマルの木がぽつんと残っていたが、集落のほとんど跡形をとどめていない。防空ごうの跡を探していた硫黄島旧島民の男性(68)は「攻撃された時の怖さだけははっきり覚えている」と言った。旧島民で強制疎開時は幼かった人だが、戦争で逃げ惑ったことは鮮烈に覚えているという。だからだろうか、慰霊碑や地下ごうの前では誰もが寡黙だった。

 戦後、国は火山活動を理由に帰島を認めず、島には自衛隊の基地があるだけ。五十五年前の姿をとどめるトーチカの残がい、赤さびた水平砲の前で、当時日本軍の兵士として戦った戦争体験者(生還者)の説明にじっと説明を聞き入る小笠原島民、戦没者遺族や中学生たち。その対比が、戦後半世紀以上を経てきた島の姿やそれらの人々の心情とオーバーラップして、どうにも奇妙な思いにとらわれた。

 島の姿、旧島民の思いに接していると、「戦後」がそのまま残っているような気がしてならない。特に、島に眠る多くの遺骨がそのことを強く感じさせた。硫黄島の旧日本軍死者は約二万人。旧島民も軍属として残された青年たち八十二人が戦死した。墓参団の中には遺族もいた。

 厚生省による遺骨収集は、島が日本に返還された昭和四十三年以後、毎年一、二回行われているが、これまでに見つかった遺骨は約八千余柱。うち氏名が特定できて遺族の元に戻ったのは約八十柱に過ぎない。幸い、今回の訪島中、厚生省、日本遺族会、硫黄島協会の他、小笠原在住旧硫黄島民の会(宮川章会長)の人々と自衛隊、鹿島建設の協力で遺骨収集作業が行われており、百四十四柱の遺骨が収集された。

 作業は、旧島民や元軍人らの協力と当時の記憶が頼り。旧島民で十年以上も協力している宮川章さん(小笠原・母島)は、「戦没者や遺族のことを考えるとやめられない」と語る。地熱で四〇度という地下ごう内の作業は過酷で三年前に「兄(典男さん・69)のさんは壕内で心臓が苦しくなり倒れてしまった」という。

 墓参中、遺骨収集は関係者の高齢化が深刻という声を何度か聞いた。疎開した旧島民の三分の一は亡くなり、遺族の切迫感も強い。しかし、このままでは収集作業が先細りしてしまう可能性が強いようだ。


 「島に帰りたい!」「一日も早い遺骨収集を!」

 「戦後処理」も道半ば…。 小笠原村 


 を離れる二十一日朝、墓参団を乗せた「おがさわら丸」が、海上から追悼の汽笛を鳴らしながら島を一周した。ハンカチを振り続けていた田嶋久(79)、弓子さん夫妻=福岡県在住=は「多くの兵隊さんや島の人の遺骨を踏みつけているようで『申し訳ない』と思いながら島を歩いてきた」と涙ぐんだ。「おがさわら丸」のデッキから、戦没者遺族や旧島民らが白い菊と酒を海に投げ入れ、手を合わせて犠牲者のめい福を祈った。

 川重夫さん=茨城県水戸市=の弟は戦死した。遺骨はいまだに確認されない。「たとえだれのか分からない遺骨でも、一カ所に納めてもらえば、弟がいるかもしれない、と少しは心が休まる」と、遺骨収集への願いを語った。戦没者遺族や硫黄島旧島民らの話しを聞き、「この人たちの戦後は、まだ終わっていない」ことを痛烈に感じた。

 小笠原島民にとって、硫黄島の遺骨収集を含めて「戦後処理」もまた道半ばであることを、この島は教えている。「自分の島に帰りたい」「自由に墓参できるように宿泊施設がほしい」など、墓参中にさまざまな訴えを聞いた。しかし、最もこだわり続けてきているのは遺骨の収集だ。大量の遺骨が残る限り、この島はいつまでも「戦後」に区切りがつかないのではないだろうか。それは、旧島民や遺族の思いにも通じると思う。

 集が難しくなった今だからこそ、国に人、時間、予算を十分かけた、大規模で徹底的な調査を提案したい。硫黄島での大々的な調査は、それらの遺骨収集の手掛かりを教えてくれるはずだ。

 笠原村によると、小笠原諸島の住民七千七百十一人は四四年七月二十九日までに六千八百八十六人が強制疎開。八百二十五人が軍属としてそれぞれの島に残され、戦死した人も多いという。(浩)


NEW! (2000.3.18)

 在日米軍による水陸両用訓練 

     容認出来ない! 

  宮澤村長、村議会が遺憾の意を表明

 東京防衛施設局が、3月2日、小笠原村に対して、在日米軍による水陸両用訓練を、3月10日から16日まで実施するとの通達をしていた事が、3月15日に開かれた小笠原村議会定例会の「基地対策特別委員会」の質議の中でわかった。同委員会では、執行部から硫黄島遺骨収集に関する経過報告と自衛隊施設用地および駐留軍施設用地に関する土地貸付料改訂にあたり1平法メートルにつき2円を増額し、49円としたいとの通達の他、在日米軍によ る水陸両用訓練の実施の通達を受けた報告がされた。東京防衛施設庁によると、5年ぶりに行われる在日米軍による演習は、3月14日に開催される日米合同慰霊祭にあたっての支援が主で、演習区域は硫黄島通信所区域、演習時間は毎日午後0時から24時までとしている。

 これに対して、村議会は「遺骨収集と基地対策問題は厚生省、またNLP訓練や演習の問題は防衛庁と別個に対応すべき。まして、一編の通達と、父・母島両漁協が了承しているから容認したとする村の姿勢はおかしい」とした上で、「一方、小笠原在住旧島民の会が一生懸命に遺骨収集をしているところで、米軍が演習していることは戦没者の英霊、遺族、島民らの心情を考えたとき、あまりにも無神経ではないのか。また、なし崩しに基地化していく懸念はないか」と村長の姿勢を質した。

 宮澤村長は、「訓練については現状認識が足りなかった。再度調整したい」述べ、「漁協の了解を受ければ事足りるといった防衛庁の姿勢に矛盾を感じている。容認できる範囲でないので、しかるべき対応をしたい」と防衛庁に抗議したい考えを示した。

 硫黄島は東京から約1.250キロ、グアム島とのほぼ中間に位置する火山島。全島約2.200万平方メートル。現在、島中央部を中心に567万平方メートルを自衛隊が基地用地として使用。海、空自衛隊約400人が駐屯している。約700万平方メートルある民有地(地権者一法人、4人、借地権者約100人)のうち、約320万平方メートルがこれに含まれ、今回新たな賃貸借が決まったのは、残りの約380万平方メートル。これで、国有林などを除く島の主要地の大半計約940万平方メートルが防衛庁の管理用地となっている。


 ◇遺骨収集

地下壕 ・トーチカなど59箇所新たに発見!

     119人が参加

 小笠原在住旧硫黄島島民の会(宮川章・会長)は、昨年に続いて遺骨収集ため硫黄島の地下壕などの調査に参加した。同島は、いまもなお一万二千柱もの未収集の遺骨が放置され戦争の傷跡が残っている。調査団は今年度、昨年11月から今年二月まで地下壕等の調査を中心に行い、昨集した五十柱に続いて、本年度は、遺骨42柱とトーチカ・地下壕など59箇所を新たに発見した。来年度は今回の調査を基に遺骨収集を行う計画だ。旧硫黄島島民の会から参加したのは、名誉会長の宮川典男さんなど十一人。

 この調査は、厚生省社会援護局、日本遺族会、硫黄島協会、日本遺骨収集青年団、海上自衛隊硫黄島基地隊員等が参加して行われた。小笠原在住旧硫黄島島民の会が正式に調査団に参加したのは、昨年からで今年二回目となる。

 厚生省による遺骨収集は、小笠原返還された昭和四十三年からはじめられ毎年一・二回行われているが、これまで見つかった遺骨は約八千柱。内、氏名が特定できて遺族のもとに戻ったのは約八十柱だけ。宮川典男(68)さんは「相当な遺骨が残っている地下壕がまだかなりあり、発見しにくい。」と話し、大規模な調査の必要性を訴えていた。

【解説】            

 硫黄島  急がれる戦後処理          【山縣 浩】 


 

 政府は、遺骨収集問題も含め、戦後処理問題も忘れることなく、一日も早い解決を、改めて考えていく必要がある。東京都や小笠原村はインフラ整備を含め、空港建設問題や観光立島を最重要課題としているようだが、この島には未だ一万二千余柱の遺骨が未収集のまま残され、未処理のまま放置されている。

 さらに、硫黄島の旧島民の帰島問題にしても、政府が「火山活動による地盤隆起」との理由から、住民の意向に反し未だ帰島が許されないでいる。旧硫黄島民 ばかりでなく、戦没者遺族などの被害者は、すでに高齢化している。

 このまま硫黄島問題を先送りしてゆけば、いずれは風化し、いつのまにか忘れ去られてしまう恐れがある。一方では、米軍の夜間発着訓練が行なわれ、また、昨年十一月十五日には、自衛隊陸・海・空三軍が、同島で初の空てい部隊を含めた統合訓練も行われた。村当局も、容認出来ないとの姿勢は取っているものの、なし崩しのうちに終わってしまっている。こうしたことでも基地問題を含め、戦後処理に関する問題に、あいまいな姿勢が浮彫りになっている。

 戦後処理問題が急がれる理由は、被害者救済が第一であることは言うまでもない。こうしてみると、国が打ちだした「火山活動による地盤隆起のため、島民の帰島は困難」。としている理由は、硫黄島は国策として事実上、軍事化を優先しているための方便であるといわざるをえない。

 今の平和と繁栄が多くの人々の命と犠牲の上に成り立っていることを、村民も若い世代も小笠原が単に自然が素晴らしいと住み着いた人も含め、こうした事実を回避しては本当の意味での「村づくり」はありえない。終戦から五十四年、返還から三十一年が経った今、改めて硫黄島問題を真剣に考えて行く時期にきている。 


 (99.6.20)  「硫黄島慰霊の旅」1999.6月

 父島から二百五十キロ離れた小島、硫黄島。六月二十日、二十一日の二日間、硫黄島旧島民、小笠原島民、小笠原中学生ら百三十三人が墓参のため今年も島を訪れた。太平洋戦争の末期、この島で日米合わせて約二万七千人が戦死した。一九四四年七月に強制疎開で島を去ってから、返還後、何度も訪ねた人もいた。のどかな自然とは対照的なトーチカの残がいが、「玉砕」(四五年三月)の傷跡として残り、五十四年目の今も一万二千柱以上の遺骨が地中に眠っている。硫黄島を訪れた二日間は好天に恵まれ、強烈な陽射しが肌を刺す。当時の日本軍将兵の苦悩が偲ばれる一方、島は、米軍との死闘があったとは思えぬ穏やかな表情だった。しかし、猛烈な艦砲射撃で、摺鉢山が低くなったというが、かつての集落もほとんど跡形を止めていない。慰霊碑や地下ごうの前で胸に迫るものがあるのか、誰もが寡黙だった

                                   ▲島民墓地に献花する硫黄島関係者

     

旧島民の里帰り

 「弟たちがこの土の下で眠っているかと思うと、地面の上を歩くことさえ申し訳なくて」と涙ぐむのは、相川恵江さん(76歳)と、妹の奥山登喜子さん(66歳)、奥山末子さん(64歳)の三姉妹。軍属として硫黄島に残り、戦死した弟の奥山千里さんと駿さんは当時十八歳と十六歳。母親が若くして亡くなった奥山家で、母親代わりに兄弟の面倒をみ

ていた恵江さんにとって愛しさもひとしおで、強制疎開で島を離れる時、波打ち際まで追ってきた弟達の姿が今でも瞼に焼き付いて離れない。たびたび慰霊に訪れている恵江さんだが、「来るたびに、ジャングルの中に今でも生きているのではないか。その辺りから『姉ちゃん!』と言って出て来るんではないかと思ってしまう」と幾度も目頭を押さえた。三人は「一日も早く遺骨収集を終わらせてほしい」と切々と訴えていた。   【左から奥山さん、相川さん、奥山さんの姉妹】


 硫黄島滞在最終日の昼食後、わずかな時間も惜しむように、旧島民の41名は出身集落への里帰りに向かった。

 しかし、すでに屋敷跡は自衛隊基地の下に埋もれ、今は跡形もなく、知り合いの里帰りに同行した人も数名いた。

 今年は特に雨が多く、ぎんねむなどの雑木が繁茂し、わずかな時間では、屋敷跡と思われる目標の場所まで辿り着ける人は多くなかった。その中で道筋に近い高橋寿美(旧姓大野)さん(58歳)の生家跡は、こんもりとしたガジュマルの木々に守ら【高橋さん親子(左三人)と、お姉さんの谷さん】れるように残り、炊事場跡らしきかまどの石の塊や、茶碗のかけらが、人家のあったことを物語っていた。同行した姉の谷トヨ子さん(64歳)は、船で訪島し、生家跡を訪れたのは疎開以来初めてで「当時の面影は殆ど無く、わずかに道路の入り口付近がそうだなと思うくらい。ただ感無量で涙がこぼれた」と語った。今は高齢で訪れることもできない両親の大野岩一さん(92歳)、チヨさん(92歳)のために、屋敷跡に実っていたタコの実やパイナップルを手にして、ほんのひとときの里帰りを味わった。

                        【硫黄島=山縣敬子記者】

 硫黄島1998年6月
  
戦没者慰霊追悼式遺族らが墓参 
                                【硫黄島=本紙・山縣 浩】




  硫黄島で玉砕した英霊に手向ける遺族と生還者の慰霊祭は六月二十一日、午前九時半から天山日本戦没将兵慰霊碑で行われた。国歌斉唱、黙とうの後、硫黄島協会の多田実・墓参団団長(協会副会長)が追悼の言葉を捧げた。「炎熱五十度を超える地下壕にあって、水なく食糧なく、援軍への期待もなく、極限の絶望感であったと推察いたします。今日ここに参ったのは一日千秋の想いでこの日を待ち焦がれたいた人ばかりです。どうか声なき声をふり絞り、相語らって下さい」。 さらに、遺族代表として同協会の松丸善次郎・千葉支部長の式辞、献花、献水と続き、慰霊祭は終了。この後、遺族の人達は島内巡りに移った。

 戦時中、米軍の襲来を予想していた日本軍は、硫黄島の至るところに壕を堀り“地下要さい”化を目指していた。この島で父を亡くした鹿児島県在住の牧内唱子さん(五四)は、現在も数多くの残されている壕のひとつに足を踏み入れてみた後で、涙声で語った。「父は私が赤ちゃんの時にこの島へ連れてこられ、玉砕したんです。家を残すため、母はその後、父の弟と結婚しました。そんなことで私たちも苦労しましたが、父はこんな酷いところで、もっともっとずーっと大変だったのですね」。

 神奈川県の高橋とくさん(七三)は、摺鉢山の頂上で戦没者顕彰碑に手を合わせ、しばし言葉を失った。「親より仲のよかった一番上の兄が、三十六歳で出征してここに来たんです。農家の長男で、何も出来るわけでもなかったのに。この青い海を、兄も見たかと思うととても切なくて…」。

 父島から南へ二百五十・離れた太平洋戦争の激戦地・硫黄島に六月二十一、二十二日の両日、戦没者遺族や硫黄島旧島民ら二百三十人が上陸した。小笠原村からは宮澤昭一村長、櫛田真昭村議会副議長をはじめ、父・母島の中学生、一般島民も参加。一行は、追悼慰霊祭で戦没者の霊を弔ったほか、出身集落への里帰り、島内見学などを行った。 

 今回の訪島は戦没者遺族と生還者の団体である硫黄島協会(遠藤喜義・会長)と小笠原村の合同事業。厚生省による遺骨収集事業、東京都の墓参事業とは別に、小笠原村の中学生の「平和教育」の事業などを加味した大規模墓参事業として、戦後五十年を迎えた九十五年に企画されて以来恒例となり、これで四回目となった。

 「おがさわら丸」で父島二見港を六月二十日に出発した訪問団一行は翌二十一日、硫黄島に到着。同島には艀で上陸し、駐留自衛隊と鹿島建設の協力を得て島内を移動、硫黄島協会関係者は島北部の天山戦没者慰霊碑、旧島民や中学生らは西部の村立平和記念祈念公園(旧島民墓地)で、それぞれ慰霊のための式典を行った。なお、硫黄島は現在、全島が防衛施設局の管理下にあり、海上・航空自衛隊合わせて約四百人の隊員が駐屯してる。


   

     祖父が眠る戦跡へ母と共に 初めて硫黄島を訪れて

       山下ミチルさん(56)・山下真弓さん(27) 広島県在住

「ここで戦死したのは、私の祖父なんです。私たちは戦争のことをだんだん忘れ去ってきていますが 、それではいけないと硫黄島に来て改めて思いました」。今回の戦没者遺族による硫黄島墓参団の中で、最も若い参加者の一人、広島県の会社員山下真弓さん(二七)は母親のミチルさん(五六)と一緒に初めて硫黄島にやってきた。

 硫黄島行きはミチルさんが決めた。真弓さんの兄にあたる長男が二十九歳の誕生日を迎えてたのがきっかけだった。「私の父、娘にとっての祖父がこの島で亡くなったのが、やはり、二十九歳の時だったんです。それで、当時の父はどんなことを思っていたのか、少しでも知りたくて。そんな気持ちを話したら、一人では心配だからって娘がついてきてくれたんです。こちらに来てみて、遺族の方達から随分お話を聞きました。いろんなことを考えさせらてしまって…」。

 島の全域に残る戦争の傷跡に悲しみと疲れを隠せないミチルさんを労りつつ、真弓さんが話しを締めくくった。「広島に戻ったら、生き方を変えていきたいと思います。それ位、心に残る旅でした」。
 あの地獄のような悲惨な戦争を二度と繰り返えしてはならない。そう信じながら、戦争犠牲者でもある母娘は、祖父が眠る硫黄島を後にした。


 


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