【特集】


 【緊急特集】 2002.10.9

 問われる社協理事の進退問題

  揺れる小笠原村社協

    事件の全貌を探る \解説\


  理事会開催の対応に関する文書(下記載)は、一方の当事者であるA職員が小笠原支庁や村役場幹部に相談して対応策の内容を決めたという。この問題をどう処理し解決を図るのか、村当局はじめ社協理事らの良識をもった判断に期待するしかない。今後、社協が毅然とした態度でどの様に対処していくのか、村民が納得する形で問題を処理できるのか、注目があつまっている。

◆ことの真相 

 今回起こった小笠原村社協の金銭トラブル問題は、Bさんが葬儀を済ませた後、3月29日に葬儀の支払い関係の費用にと社協A職員に300万円と香典89万4千円の計389万4千円を預けたことから始まった。

 葬儀費用の精算を求められ、見せた帳簿の内訳が289万4千円から始まっていたことの説明で、100万円についてA職員は、『故人から生前にお世話になった謝礼に1、000万円をあげると言われていたので、当然100万円位はもらう権利があると思い…』とBさんへの説明の場で言っていたという。無断で差し引いたまま5ヶ月の間放置していたものと、事情を良く知る関係者は語っている。

◆主張に食い違い

捜査はなお続行

 A職員本人は理事会の事件状況説明の中で、「100万円は、Bさんから私に対して“気持ち”だから受け取ってほしいと言われ、断ったが、結局は社協への寄付金として預かった」と主張している。

 一方、Bさんの方では、A職員にあげたつもりも、寄付した覚えもないとして、葬儀費用として預けた総額から100万円を差し引いた精算の報告を受け、疑問を持ち、結果的に小笠原警察署に被害届を出している。

 預かり証については、被害届が出された8月になって、A職員は警察に預かり証を提出しているが、調査の結果、問題が起きた3月の時点で100万円についての領収書も預かり証もBさんには渡っていなかったことが判っている。なお同署では、この事件を詐欺の容疑で捜査を継続中である。

◆社協では内部経理検査を実施

 また、この事件を重く受け止めた村社会福祉協議会(以下社協)は、佐藤直人会長、小笠原愛作、菊池歌子両副会長の他、大澤彰、赤間泰子、小笠原美恵子、平賀洋子、谷口光子氏ら各理事と、行政側から中村都支庁総務課長、セーボレー孝健康福祉課長らで、今回の事件についての対応策を協議した。

 その中で、佐藤会長、小笠原副会長、大澤理事が内部経理検査担当委員となって内部検査を実施し、事実の徹底解明を諮っていく事を決めた。 

◆当面の間自宅待機 処分に\社協

 さらに、A職員の進退問題については、小笠原警察署で捜査中でもあることから、捜査当局の結論を待って決めたいとしている。

 それまでのA職員の処分として、10月4日付で「当面の間自宅待機」とすることを決めた。

 本紙の取材に対し大澤社協理事は、「(今回の一連の問題について)会長はじめ理事全員が重く受け止めている。内部改革を含め、信頼回復を得るためにも重大な決意で臨む 」と話している。

 社協では今月9日に評議員会を開き、席上、一部の理事が辞表を提出する動きもある。


 

この国の縮図・小笠原

        【小笠原新聞社東京支局長・斎藤貴男記者】


バブル期に決まった

 小笠原空港計画

  青島都知事の苦笑


 い緑をたたえた木々が眼下を埋めつくしている。視線を上げれば、底抜けに青い空と、太平洋の大海原がどこまでも広がっていた。

「ほう、ここですか」

 島幸男・東京都知事が呟いた。さる六月二十七日午後四時半頃。東京から南に千キロ離れた小笠原村父島南東部の山の中腹に、彼は立っていた。かねて懸案であり続けてきた小笠原空港が、そこから見下ろせる時雨山周辺の一帯に建設される。この一カ月前に都が正式決定した計画によれば、環境アセスメントなどを経て西暦二〇〇〇年に着工、二〇〇八年開港予定。千五百メートル級の滑走路で、定員百二十人クラスの小型ジェット機が一日一便、離発着することになるという。

 竹芝桟橋から父島二見港まで、定員千三十一人の「おがさわら丸」で片道約二十六時間を要する。昨年までの旧式船では二十九時間かかった。運航間隔は一週間に度。地球の裏側にあるブラジルよりも“遠い”内地との交通アクセスは、空港建設によって一気に改善されることになる。

 案内役の都庁職員が、あれこれと説明を始めた。うんうんと頷く知事。取り囲む報道陣が、その様子を追いかける。――この美しい自然を潰してしまうなんて、もったいないと思われませんか?全国ネットのテレビ局の女性キャスターがマイクを向けた。知事は慎重に、言葉を選びながら答えた。「(空港建設は)村民の悲願ということですから。建設に際しては、専門家や地元の人々のご意見をいただきながら、自然環境に十分な配慮をしていきたいと考えております」アメリカ軍に占有されていた小笠原諸島が一九六八(昭和四十三)年に返還されてから、今年は三十年目に当たる。青島知事はこの日、亀井久興国土庁長官や田中晃三都議会議長、島嶼選出の川島忠一都議らとともに海上自衛隊の飛行艇で来島し、大神山お祭り広場での記念式典を終えたばかりだった。

 翌六月二十八日朝、一行は母島での式典を消化して父島に戻った。昼過ぎ、自衛隊基地での歓送会に臨んだ青島知事の許に地元紙『小笠原新聞』の記者が駆け寄って質した。

――財源問題はどうなるのでしょう。運輸省は首を捻っているようですが。

 空港整備法上、小笠原空港計画は第三種空港(いわゆる地方空港。設置・管理者は地方公共団体で、この場合は東京都)として位置づけられている。詳しくは後述するが、法の建前は、その建設費の五〇〜八五%を国が負担するとしている。

 地元には、しかし、国側の及び腰ばかりが伝わってきていた。山地を切り開かざるを得ず、また資材の輸送も容易でない地理的事情は、普通の地方空港とは比較にならない建設費を必要とする。都港湾局は総額六百五十億円という控え目の試算をはじき出したが、危機的な国家財政の下では、最低ラインの五〇%も難しいのでは。政府高官と接触した関係者の多くが、同様の感想を洩らしていた。そうした諸々を受けての地元紙の質問だった。青島知事は苦笑した。

「まあ、都としても財政難の折り、これ以上の起債などは難しい状況です。政府の心配も承知していますが、二、三年で完了する短期的な事業ではありませんから、いずれ国が多くを出さざるを得なくなってくるはず。そこに期待しているんです」

 二つの都知事発言はそれぞれのメディアで報じられたが、特に注目を集めることもなかった。都の姿勢に従来との際立った変化があったわけではないからだ。が、少し考えてみると、おかしなことに気づく。都は財源も曖昧なまま、計画を立案したのだろうか。エコロジーの見地はひとまず置いても、そんなことで空港建設という大事業ができるのか、というより、本気で実現するつもりがあるのか。そも、仮に空港が完成するとして、地政学的にも重要な小笠原諸島の未来はどうなっていくのか。何も見えてこない。返還三十年。空港問題が具体化してからだけでも、すでに十年以上が経過した。

“東洋のガラパゴス”と謳われ、原始に近い自然をなお残す島々でも、この間、さまざまな人間模様が繰り広げられた。そして今、小笠原は、この国の瓦礫の随(まにま)に、ぷかぷかと漂っている。


展望が開けない空港計画 (98.6)

 今、小笠原空港計画は、ほぼ一〇〇%、東京都官僚のペースだけで、淡々と進行している。ただし既述の通り、財源問題は棚上げされたままであり、空港完成後のビジョンもないに等しい。

  九一年に小笠原空港が六空整に盛り込まれた際、都は運輸省から@環境問題を踏まえた開発計画案と需要見通しAより成熟した空港建設計画B資金計画の策定を強く求められた。特に@は、経済合理性には問題が残る計画であるだけに、空港を作ってどうするのか、明確な方向性を示してほしいということだった。長期計画らしきものは存在する。都の地域振興課によれば、九三年にまとめて運輸省にも提出し、理解を得たという。が、(1) 自然環境との共生(2)地域経済の自立強化 (3)バランスのとれた開発と保全を実現――の三点を狙ったというその内容は、著しく具体性に欠けている。いずれ運輸省は見直しを要請するはず、というのが専らの見方だった。

 そうした中で、新たな流れが生じてきた。返還三十周年記念式典を控えた六月中旬、父島の全戸に一枚のチラシが配布された。「小笠原に超高速船を導入する件についての最近の動き」と題され、田中秀一郎の署名と、軽妙な自己紹介があった。

 〈小笠原に実家がある旧島民。桑の木山の「田中農園」・旧「大盛丸」の一人息子、小笠原村政初代田中教育長の甥っ子。返還から高校まで小笠原で生活。現在、東京で会社勤め。帰省も満足に出来ず、島にいる両親の健康にも不安がある。帰島したいが仕事がない。山に土地があるので、民宿でもできれば良いのだが……〉

 超高速船とは、「テクノスーパーライナー(TSL)」を指している。運輸省の音頭で造船大手七社が技術研究組合を結成、開発を進めてきた次世代の大型船舶技術だ。

 TSLは五十ノット以上の速度で外洋を航行できる。竹芝桟橋〜二見港間なら十四時間強。静岡県での就航実績もあるので、小笠原航路にこれを導入して空港が完成するまでの“つなぎ”にしてはどうかとの提案である。

 田中氏(三十三歳)に会った。彼の勤務先は大手証券系の投資信託委託会社だったが、この件は仕事とは無関係だという。「僕は空港建設に反対ではありません。自然破壊のおそれがる時雨山案はベラボーだと思うし、沖合の浮体空港がベストだと考えていますが、他のやり方でも、環境に無理のない空港ができるなら結構なことです。でも、完成まで十年もかかるのでは困ります。僕はキャピタルマーケットの中枢にいるのでよくわかるのですが、小笠原もいつまでも国や都を頼ってはいられません。一刻も早く島内に産業を興し、持続可能な経済システムを創らなければ。そのためにはTSLなんです。旧島民の子孫としては、いろんな思いはありますよ。戦中前後と苦労をかけてごめんねというのが小笠原振興開発臨時措置法の意義だと僕は思うのですが、現実は土建屋さんにばかりお金が回っていくじゃないか、とかね。ただ、けしからんと言っても始まらない。あくまでも現実を、僕は語っている」田中氏は個人の立場で運輸省や三井造船の担当者との協力関係を築き、TSL導入に伴う小笠原観光業のあり方をまとめた小論や、運航会社の青写真まで作成している。以前から会社の仕事とは別に環境関連のイベントプロデュース活動にも熱中していたそうだが、同様の“ノリ”で、TSL構想にも取り組んできた。

 「運輸省といっても、こちらは海上技術安全局の造船課ですから、空港とは縁もゆかりもありません。僕と話をすることで、TSLの担当官は一応、航空局にも打診したそうですが、関係ないよ、ご自由にと言われたらしい。僕は急進派自由主義者なんです。何もかも市場原理に任せればいい。あの『選択の自由』のフリードマンだって、僕に言わせれば甘い。エコロジーも市場原理で回るんです。回らなければ理論の価値がないじゃないですか。子供の頃から、僕はこの国のあり方を、ずっと考えてきました。それを故郷の小笠原に適用してみたら、というのが今の世界観。TSLが導入できて、リスクの分散が可能であれば、僕もぜひ経営に参画してみたいなあ」。

 無党派層の動きをもうひとつ。小笠原の航空路を考える会」の安井代表の話である。「私たちは都が今回決定したという時雨山周辺案にも賛成できない。あのあたりにも数十万種類の固有種が棲息しているし、近くにある水源が汚濁されるおそれがある。そんな趣旨の質問状を村長に出したのですが、まともな返事がないどころか、呼び出され、支持したくせになんでこんなものを寄越すのかと、文句を言われてしまった。高速船もですが、私たちはジェット機よりも、空港のいらない飛行艇や、滑走路が短くて済むコミューターの導入をこそ考えていくべきだと考えています。個人的には、父島の七十キロ北にある無人島の聟島を経済特区にし、空港も作るのがベストだと思う。そこからはヘリを飛ばす。どうしてみんな、そういうスケール雄大な発想ができないんだろう」TSLをはじめ、どれもアイディアとしては面白い。が、少なくとも現時点では、いずれも実現可能性はかなり低いとされる。安全性や採算性などの点、法制上の問題点が多すぎるためで、それ以上の議論には発展していない。内地から千キロという距離は、それだけ遠いのである。

 「そんな危なっかしいものに誰が金を出し、運営してくれるというのか。連中は本気で何かをやる気などない。ただチャチャを入れ、真面目な小笠原島民を惑わしているだけだ。「当事者でも専門家でもない者の無責任な思いつきが大きく取り上げられすぎる」 

 小笠原の有力者の一人は、声を荒らげていた。彼が空港建設推進派で、旧来の権力構造に連なる人物である点は割り引かなければならないが、この指摘にも一定の説得力があるように思われた。

 なお、安井氏が主催する小笠原野生生物研究会は最近、ある外資系訪問販売会社から千二百万円の助成金を受けている。「小笠原の植生復元とクロアシアホウドリの営巣地保護」活動に対するものだが、環境問題を高らかに謳うこの訪販会社の商法は、その一方で、自殺未遂や自己破産など、深刻なトラブルを数多く引き起こしていることでも知られる。消費者問題の研究啓蒙機関である特殊法人・国民生活センターによって、昨年来、国会などの場で再三取り上げられてもきた。「そんな会社の助成を受けるべきではないという忠告はありました。でも、私は割り切っていますから」安井氏は悪びれずに胸を張った


 失われた住民の責任

◇権力構造が一変した小笠原村長選 (98.6)


 小笠原空港計画をここまで推進してきたのは伝統的な建屋政治の手法に他ならない。実際、宮川晋・前村会議長 =写真(左)= は地元で土建会社を経営。小笠原諸島振興開発特別措置の下、国の補助金で成立する公共事業依存構造の中心であり続けてきた人物だ。

 彼をはじめとする空港推進派は、地縁や血縁、職域などを利用した強引な署名運動を展開したことがある。村議会の特別委員会に参考人として招かれた期成同盟(推進派の連合体)会長はそのことを問われ、「民主主義だの強圧だのと言葉遊びをしている時じゃない」と開き直った。自然派を代表して村議選にトップ当選した若手議員が、いつの間にか宮川氏の傘下に“転向”していったエピソードも、小笠原がいかにも日本的なムラ社会ある現実を見せつけた。ところが一昨年六月、小笠原の権力構造は一変した。

 四期十八年間村長職を務めてきた安藤光一氏が引退。新村長を選ぶ選挙は宮川氏と宮沢昭一氏(五十四歳)の一騎打ちとなり、わずか三十九票の僅差で宮沢氏が当選したのである。圧倒的優勢を伝えられていた宮川氏が敗れる大番狂わせだった。

 二人とも保守系無所属の立場からの立候補だった。が、議会関係者の分析によれば、宮沢氏の勝因は浮動票の掘り起こしに成功したことに尽きるという。殊に選挙戦の中盤で、反土建政治の立場から空港建設に消極的だった日本共産党の支援と、都立小笠原高校の元教諭(生物学)で、地元における自然保護派の理論的支柱である「小笠原の航空路を考える会」代表・安井隆弥氏(六十七歳)の支持を得たことが大きかった。「少なくとも宮沢さんの方が、宮川さんよりは誠実で、聞く耳を持っている。ベストではないがベターだと思った。ただ、私は個人として応援しただけで、考える会が選挙運動をしたように受け止められるのは心外です」

 安井氏は語った。いずれにせよ小笠原の無党派層は、彼らに引っ張られる格好で宮沢支持に動いた。もともと内地に比べ格段に高い小笠原の投票率は、この時も七八・二五%という数字を示していた。

〈日本共産党が単独与党の自治体首長は、東京では狛江市、足立区についで三人目。宮沢氏は、村長選にあたって、情報公開条例を制定しガラス張りの村政、幅広く住民の意見をもとめる住民参加の“村民が主人公”の村政、美しい自然を守り、必要な工事に際しても自然環境を配慮した村政実現を訴えました〉こう書いたのは共産党機関紙『赤旗』(九七年六月二日付)である。一方、内地で小笠原フリークの会「小笠原ネイチャーフォーラム」を運営しているフリーライターの有川美紀子氏(三十六歳)は、この選挙結果に時代のうねりを感じたという。

「私が一貫して追いかけているテーマは“島”と“自然”と“人”。ですから他の離島にもしばしば出向くのですが、小笠原には決定的な違いがあります。よかれあしかれ他の島の生活には長い歴史が刻み込まれているのに対し、戦時中の強制疎開、戦後の米軍支配という特殊な経緯を辿ってきた。空白の時代が長かったため、今になって歴史が作られているという雰囲気なんですね。だから私のような外の人間も、スッと入って行ける。

 竹下首相のふるさと創世事業で全国の自治体に一億円ずつ配られた八七年、村の紹介ビデオの制作に関わったのが私の小笠原体験の始まりでしたが、その後の十年間で、あの島は劇的に変わりました。都会にあって自分たちにないものを欲しがるばかりだったのが、逆に自分たちだけが豊富に持っているもの、自然の素晴らしさに皆が気づくようになった。特に、それまで押さえつけられてきた三十〜四十代の方々の活躍が急ですね。あの村長選の結果は、最後のタガが外れた瞬間のように、私には見えました」。

 ◇共産党支持を受けた新村長が推進 


 小笠原は、それではどう変わったか。新村長誕生からすでに一年が経過している。宮沢新村長 =写真(左) は、自らが共産党系、自然保護派の首長だと呼ばれることを極端に嫌がる。当選直後の所信表明演説では安藤前村長の路線継承を打ち出し、議会でも「共産党の支持は受けたが、政策実行は別問題」と発言した。また、筆者の取材に対してはこう語った。「私は村民との話し合いが必要だと思うから、選挙前には共産党とも話をして、応援してくれるというので、『じゃあお願いします』と。彼らは宣伝がうまいから、当選後はそのイメージ一色になって、いやあ苦労しました。私は以前、石原慎太郎さんの小笠原での後援会長だったぐらいで、むしろ右なんです。でも、こんな島で右も左も、共産党も何もないですよ。私は共産党や『考える会』とも理解し合いたい。迎合ではなくてね。ただ、彼らの言うことは非現実的に過ぎるんだな」村長の“ブレーン”と呼ばれる人々の行動は、さらに奇矯である。村長同様、共産党は見向きもしない。といって旧来の権力構造に擦り寄るわけでなく、独自のパイプを中央との間に築こうとするでもない。空港建設に政治力を駆使してきた川島都議との関係はとりわけ興味深い。少し長いが、『小笠原新聞』(九七年八月一日付)の記者座談会から一部引用する。

「村長選の二週間後に行われた都議選で、島しょ選出の川島忠一氏が四度目の当選を果たした」「過去の都議選で、宮沢氏は川島氏の対立候補だったO氏を推してきた。今回は川島氏の応援に転じたけど」「共産党のU氏を応援するのが筋のような気もする」「そういう訳にはいかないよ」「共産党に支援された村長ということで、今後の小笠原が国や都からどう扱われるようになるのか」「都議の中には、依然として『宮沢には、敷居をまたがせない』と言いはなっているひともいた」「川島都議はたよりになる人なんだ。でも、彼は今回の都議選で、一度も小笠原に来なかった」「当選後に(宮沢ブレーンの)N氏とK氏が(川島氏の地元の)大島に飛んだが」「建設的な話は一切なかった。二人は『商工会の仕事で自然塩の視察に来た』と言い、簡単な挨拶をしただけで、三分で帰ったそうだ」「わざわざ“ついで”に来ましたというポーズを取るのに、何の意味があるのだろう。関係修復どころか、逆効果なんじゃないの」「K氏は『川島会』会長の八丈町のA氏と仲がいい。その線があるから、川島都議との関係はどうにでもなると踏んでいるのではないか、だとしたら甘すぎる」(ッコ内は筆者注、イニシャルは原文では実名)

 事実関係については、川島氏周辺にも確認した。この筋によれば、N氏、K氏らのグループは返還三十周年記念式典の直後に「小笠原ライオンズクラブ」を発足させ、ことごとく理事に名を連ねたが、ここでも川島氏の政敵である八丈島のO氏がライオンズ本部との間に入っていたという。

 期成同盟の前会長がさる三月に亡くなった。後任会長の人事が焦眉の急となった時の対応。前村長の安藤光一氏 =写真(右)= が嘆く。「昭ちゃん(宮沢村長)は、事前の相談も何もなく、村議会の場で私や宮川晋君の名前を出して、『自分が頼みに行く』とやった。だが来ない。二週間以上たって、やっと電話がかかってきましたよ。この間に漁協組合長から打診を受けたが、返事はしていません。すると今度は、公認会長は安藤にするから了解しろというビラを持って、N君と村役場の課長が期成同盟加盟の各団体を回ったという。村長の俺が言うんだから引き受けるのが当たり前だって感覚には参りました。ここまでこじれた責任は、私にはありませんよ」。

 こうした事情もあって、本稿執筆時点の八月八日現在、期成同盟の後任会長はなお決まっていない。

 安藤氏は続けた。

 「三十周年記念式典への招待状が届いたのは、一週間前になってからです。それまで何も言ってこないので、どうしたものかと思っていました。式典の一カ月前には村の幹部を引き連れて国や都に挨拶周りをしたらしいけど、この時は連絡さえなかった。宮川晋君のところもそうだってね」先輩や政敵を上手に遇さないというだけで新体制の聡明さを疑うのは早計だろう。だが、共産党公認の村議で、宮沢村長誕生の立役者だった佐々木哲子氏(六十八歳)も、失望を隠さなかった。

 「村長はアンケートでも対話集会でも何でもやって、もっと村民の声を聞くべき。そうすると言うから私たちは支援したのに、近頃は姿勢が変わってしまったように見えます」もっとも、だからといって彼女は、宮沢村長の姿勢を改めさせるような行動を取るでもない。遡れば、彼が筋を違えて「安藤村政の継承」を言い出した時から公約違反を追及すべきだったのだが――。


◇現実感覚が希薄な小笠原bこの国の縮図

 一連の事実を積み上げていくと、ほの見えてくるものがある。小笠原村民がある種の変化を欲したのは確かである。その空気は昨年の村長選に象徴されていた。が、変化イコール改革ではなかった。

 本質的な対立軸など、実は初めから存在しなかったのではないか。空港建設のように面倒なことは“お上”に委ねたまま、単に島内権力の再編成が図られただけだったのではあるまいか。

 先に紹介した有川美紀子氏の“歴史の空白”という言葉を、私はここで思い出す。ただし彼女の受け止め方とは逆に、どちらかと言えばネガティブな意味合いで、だ。

 小笠原諸島の歴史は業が深い。文献によれば、最初の発見は一六七〇年。遠州灘で遭難した阿波国のミカン船が漂着したのだったが、入植はハワイから来た欧米人たちの方が早かった(一八三〇年)。一九世紀には捕鯨の拠点として国際的に注目され、やがて日英米間の領有権争いに発展した(田中弘之著『幕末の小笠原』中公新書など)。

 日本領土として認められたのは一八七六年である。その後の開拓は急で、ピーク時には約七千七百人と現在の三倍以上の人口を数えたが、太平洋戦争末期に大部分の住民が強制的に疎開させられ、歴史の第一幕を下ろした。

 大戦中の悲劇は繰り返すまでもあるまい。行政区分上小笠原村に属する硫黄島の悲劇は殊に凄まじく、一九四五年三月、駐留していた日本軍は米軍大艦隊の上陸の前に玉砕した。かの島での戦死者だけで二万百二十九人に達したとされる(旧島民墓参資料より)。

 だが、小笠原に再び日本人が定住するようになるまでには、戦後二十三年を待たなければならなかった。硫黄島に限れば、旧島民の帰島も許されないままに、軍事基地化だけが進んでいる。八九年からは米軍艦載機による夜間離着陸訓練(NLP)が続けられ、この十一月には陸海空の三自衛隊が合同演習を開することになった。

 そうした歴史は、強制疎開以前に小笠原島に住んでいた、いわゆる旧島民たちの共通体験だった。昨年の村長選で明暗を分けた宮沢昭一氏は一歳の時に父島から、宮川晋氏は五歳の時に硫黄島から、それぞれ八丈島と島に引き揚げた経験を持っている。北海道出身の佐々木哲子氏は、夫が父島の出身だった。

 彼らはそして、六八年の返還後、それぞれの人生や価値観を背負いながら、再び小笠原に帰ってきた。首長が都から派遣されていた時代を経た七九年、初めての村長選で宮沢・宮川の両氏は理想を求めて共闘し、やがて訣別した。

 その後の空港問題をめぐる議論も対立も、いわば歴史の連続性の中にあった。その連続性が村長選で途切れた。

 宮沢氏は村政の頂点に立ちながらリーダーシップを発揮できず、佐々木氏は彼の優柔不断を知りつつ手を拱き、宮川氏は捲土重来を期して野に下っている。目立つのは“ブレーン”であり、都庁や村役場の公務員であり、返還後、自然を求めて都会からやって来た新島民ないし旧島民の子孫たちである。たまたま遊びに来てそのまま居ついてしまったという若者も、“新新島民”などという形容が用意されるほどに多い。

 東京都の調べによれば、今年四月一日現在の父島の人口千八百六十九人、母島は四百三十四人。このうち旧島民とその子孫はそれぞれ三百九十二人、百五十三人だけだという。宮沢村長は洩らしていた。「普通、自治体職員というのは地元の人間がなるものです。それが基本であってこそ、地域への愛着も夢も生まれるのだと思う。しかし、わが小笠原村の職員は、例年八〇〜九〇%が内地からの採用なんです。そのせいか、資質は十分だけれど、自分たちが小笠原の人間だという意識が希薄で、なんだかミニ東京都みたいになってしまっている。地元の人を優先的に採用しようにも、今年なんか一人も受けてくれなかった」

 圧倒的に美しい現実の大自然とは裏腹に、今の小笠原も、その将来や空港問題をめぐる議論も、どこか虚ろである。公共事業依存体質だけではない。誰もが安全圏からものを言い、現実感覚が社会から失われつつある点でも、小笠原はこの国の縮図なのである。


旧田中派の大物代議士と小笠原空港計画との関係

 青島知事の時雨山視察からちょうど十年前の八八年六月二十六日。当時の鈴木俊一都知事は、小笠原返還二十周年記念式典に招かれた父島で記者会見し、同島の北五百メートルに浮かぶ無人島・兄島が空港の最有力候補地だと語った。

 この三日前、都は小笠原空港建設にいよいよ着手したい方針を発表していた。間髪をいれず、記念式典に合わせて候補地を絞り込んだ、官僚出身の知事らしいパフォーマンス。ほぼ全域が国立公園内に指定されている小笠原諸島だが、兄島は普通地域の面積が広い。強い法的規制を受けず、また大半が国有地で買収面の困難さも伴わない点が、当局にとって都合がよかった。政府はいずれ兄島に空港を誘致する含みで返還直後の国立公園指定を行っていたとする説も根強い。

 建設費が内地より桁外れに高くつく事情は当時も同じである。美濃部都政の時代もそれを理由に先送りされ続けた。だが、バブル経済下、税の自然増収が当たり前になっていた時代が、鈴木知事を強気にしていた。もちろん、都は空港計画を突然言いだしたわけではない。当時の小笠原村議で、後に村議会議長となる実力者・宮川晋氏(五十九歳)と前出・川島都議ラインの政治力の賜物だったというのが村内の定説である。

その宮川氏が語る。

 「航空路の開設は、小笠原村民にとって、返還以来の悲願でありました。必要な物資を運び、緊急時の移動手段ともなる生活路線としてはもちろん、内地とのアクセスの確保なくして島の発展、経済的自立はあり得えない。ガラパゴスだなどと皆さんは軽々しく言ってくれるけれど、われわれなどよりはるかに自然に恵まれた、たとえばアフリカの人々は、それで幸せですか? 貧しさゆえ、彼らは先進国に言われるままに木を切り農産物を輸出して、自らは日々の食べ物にも困る有り様だ。

 都や国の補助金のお蔭で、小笠原島民は食ってはいける。設備の整った病院はないけれど、急病人が出れば自衛隊機が飛んでくれます。しかし、何もかも他人に頼りきりでは、親が胸を張って子供を育てられません。人間が住んでいる以上、産業を興し、最低限の雇用を生み出すことが不可欠なのです」都の方針が決まっても、国の空港整備計画に盛り込まれなければ、小笠原空港の実現はない。飛行場が欲しい自治体が目白押しの中で、人口二千三百人の離島の優先順位はどうしても低くなる。

 が、関係筋によれば、宮川・川島ラインの政治力は当時自民党の最高実力者と囃されていた小沢一郎氏(現、自由党党首)にまで及んだという。運輸省による第六次空港整備五カ年計画(六空整、九一〜九五年度)策定作業が本格的に動き出した九〇年春のことだ。

「できないことは山ほどあるが、できることには知恵を絞ってみろよ」

 小沢幹事長は、陳情に訪れた安藤光一村長、宮川村議会議長(いずれも当時)ら小笠原の有力者たちの目の前で運輸省首脳に電話をかけ、こう指示したという。折しも運輸政務次官は小沢氏に近い衆議院議員・二階俊博氏であったから、話はとんとん拍子に進む。二階氏は運輸省航空局だけでなく、国土庁や自治省など関係各省庁の担当課長や都幹部を集めた会合を設け、“作戦”を進めていった。ある関係者が打ち明ける。

 「やはり財源問題には悩まされました。一般に地方空港の建設費は四百億円程度が相場ですが、小笠原空港がこれを大きく上回るのは確実です」。小笠原諸島振興開発事業費補助金交付要綱で認められる国の八五%負担、離島振興法の八〇%負担はおろか、空港整備法の定める五〇%も世論が許さないに違いない。

 そこで、こういうことになったんです。国は当面、相場の五〇%すなわち二百億円だけを出す。都に多くを負担していたくが、そこは地方交付税交付金や各種の許認可権などを通して、長い目で調整を図っていこう、と」かくて小笠原空港計画は、大館能代、新石垣などの計画とともに、六空整の予定事業として採択される。が、九六年になって兄島を候補地とする当初案は排除された。兄島には植物や陸生貝類(カタツムリ)の固有種が多く棲息している。空港建設はその生態系を破壊する危険が高いため自然科学者や自然保護団体の反対が根強く、ついには環境庁が難色を示すに至ったのである。

「兄島案が覆ってから改めて環境現況調査を行い、自然環境を損なわない空港建設が可能と見られる地域を父島五、母島二、弟島一、聟島一の合計九ヶ所に絞り込みました。これに安全性や経済性の視点を加味し、航空工学や運航技術の専門家を交えた委員会で議論した結果が、今回の時雨山周辺案なのです」(西塚武彦・都総務局行政部地域振興課長)小笠原空港計画はかくも紆余曲折を辿ってきた。にもかかわらず、ポスト兄島案が決定していない九六年末の段階で、続く第七次空港整備五カ年計画(七空整、後に七カ年計画に変更)にも継続されている。

 小沢氏の影響力がそれだけ残っていると見るべきだろう。もっともバブルの余韻冷めやらぬ時期と現在とでは経済情勢の変化はあまりに激しく、建設費に関わる官僚同士の取り決めまでもが生き続けているとは考えにくい。

 小笠原空港計画をここまで推進してきたのは伝統的な土建屋政治の手法に他ならない。実際、宮川晋・前村会議長は地元で土建会社を経営。小笠原諸島振興開発特別措置法の下、国の補助金で成立する公共事業依存構造の中心であり続けてきた人物だ。彼をはじめとする空港推進派は、地縁や血縁、職域などを利用した強引な署名運動を展開したことがある。村議会の特別委員会に参考人として招かれた期成同盟(推進派の連合体)会長はそのことを問われ、「民主主義だの強圧だのと言葉遊びをしている時じゃない」と開き直った。自然派を代表して村議選にトップ当選した若手議員が、いつの間にか宮川氏の傘下に“転向”していったエピソードも、小笠原がいかにも日本的なムラ社会である現実を見せつけた。

 ※岩波書店 98.9月号『世界』に掲載された記事を転載した。


 ※お読みになって、ご意見、ご感想がございましたら

本紙編集部までお寄せ下さい。

  小笠原新聞社・電話・04998-2-3411

             FAX・04998-2-3412

 Eメール・Main@ogpress.com


◇現在、「精神の瓦礫・失われたバブルニッポン(岩波書店)は単行本として全国の書店で発売されています。是非、お買い求め下さい。(99.11.20.) 


TOPへ戻る