追悼の言葉  (全文)  2010.6.18 硫黄島村立平和祈念公園


 本日ここに、硫黄島戦没者の「慰霊祭」の挙行に当たり、硫黄島旧島民を代表いたしまして、戦没者の御霊(
みたま )に、謹んで哀悼の念を捧げたいと思います。 本年は大戦終結から六十五年目、小笠原村は、米軍統治
を経て、返還から四十二年目を迎えようとしています。

 とりわけ「硫黄島」は、大戦も末期となってから、「沖縄戦」に先駆けて、本土防衛のための数少ない拠点と
され、類を見ない激戦の場となりました。  敗戦の色濃い、1945年2月、米軍が上陸。猛烈な艦砲射撃と
爆風は一瞬にして全島を被い、三十六日間のこの世の地獄が続いた末、日本軍約二万人、米軍約七千人もの命が
この島の至るところで失われたのです。その中には八十二名の島民も軍属として尊い命を失っております。
 
 皆様がたたずまれているこの地は、今、美しい緑と赤い花が咲く、平和を祈る公園となっていますが、静かに
眼を閉じた時、その当時の情景を一瞬でも想像してみることができるでしょうか。

耳をつんざく爆音。火煙の中、隣にいた戦友が一瞬のうちに物言わぬ人になる現実。ろくな飲み水も食べ物も
武器も無く、援軍すら望めない絶望的な状況の中で、一人ひとりが、どんな気持ちで最後まで戦いに向かってい
ったのでしょうか。

 ここに多田実氏の戦争体験記「何も語らなかった青春」の中で、設営隊だった島民らが、「兵隊さんがこの島
を守ってくれるのです。私たちがやらないでどうしますか。死ねば故郷の土になるだけです」と言って進んで切
り込み隊に志願して逝った姿は、陸海軍の称賛の的だったと述懐されています。

 今日ここに参列された中学生の皆様と、わずかしか年の離れていない若者を初め、多くの一般人が、生き地獄
の真っ只中に置かれ、肉体と精神の極限にありながらも、国のため、故郷の家族のためと、律儀に、気力を振り
絞って戦いに身を投じ、一度しか無い人生と、輝かしい未来を、一瞬の内に散らせて逝ってしまったのです。

 私たちは、六十五年前の、あの時の年齢で止ったまま土に埋もれている御霊に、どんな言葉を持って語りかけ
たらよいのでしょうか。

 また、土の中の声無き声は、何を語りたいのでしょうか。打ち寄せる波音や木々の葉擦はずれの音に託した
かもしれないその声なき声を、きょうはどうぞゆっくり聞いてあげて下さい。

「嵐は過ぎてうるわしく  平和の空は輝けど   呼び返すすべも無し  
ああ、戦いに痛ましく逝ゆける御霊よ   彷徨さまよう御霊よ」
 
 この歌は、遺骨収集に其の半生を捧げた今は亡き宮川典男氏がいつも口ずさんでいた「平和観音讚仰(さんぎょう)歌」です 。

宮川氏は「歩いている地面の下に遺骨があると思うと心が痛む。一日も早く遺骨収集が完了できることを念願
している」と涙ながらに語ることが常でした。

 この悲願を受け継ぎ、遺骨収集を完遂させるのが平和の時代に生きている私たちの責任では無いでしょうか。
現在も、高齢に達した戦没者遺族や、今だ帰島がかなわないでいる旧硫黄島民が懸命に遺骨収集作業を続けてい
ます。昨年度は五十一柱の御遺骨をお迎えすることができました。

 そこで若い皆さんにお願いがございます。今後も戦争体験を風化させることなく、戦争の悲惨さと生命の尊さ
を考える機会を持ち、平和の大切さを学び、語り継いでいって欲しいのです。そして私たちの遺骨収集のバトン
を受け継いでいってくれる若人が、ここにきっと馳せ参じてくれることを信じ、御霊に最後の一柱までお迎えす
ることを、ここに誓いあいたいと思います。

 最後に、犠牲となられました多くの戦没者の御霊のご冥福を祈念いたしますとともに、ここ硫黄島から平和の
大切さを継承していくことをお誓いし、追悼の言葉とさせていただきます。 この慰霊祭の開催に御協力いただ
きました、「小笠原村」を初め「硫黄島海上自衛隊、並びに航空自衛隊」、「鹿島建設」など関係者の御協力に
感謝を申し上げます。

   平成二十二年六月十六日    

  小笠原村在住硫黄島旧島民の会会長    岡 本 良 晴