「風」5月号
日本は、いま、政治も経済も身動きの取れない「冬の閉塞状況」の谷底に突き落とされたような状態が続いている。政治の〈風景〉を見ると、国際外交も含めて、とても本来のあるべき政治の姿を示していない。経済にしても、深刻なデフレ不況に対し、なんら脱却策が打ち出せない。大胆にして有効な戦略的政策が構築できないのだ。
そんな閉塞状況を前にして、最近、「だからこそ、歴史に学べ」の声が多い。そのせいか、数年前から、例えば、信長(織田)、秀吉(豊臣)、家康(徳川)などに関係した歴史書や人物伝が、改めてちょっとしたブームを呼んでいる。
その信長は、戦国時代の十六世紀後半、全国支配をめざし、ライバルとなる有力戦国大名を次々と打ち破り、その間にいまなら“革命的”といえるような大胆な政策を矢継ぎばやに打ち出した。そのひとつが「楽市楽座」である。
当時の商工業者は、エリートといえる公家や社寺など荘園領主が支配し、独占的経営をしていたが、商品経済の発展に伴い台頭した新顔の商工業者が、この仕組みは「社会発展の障害だ」と批判。中世にあって、非エリートから批判が表面化すること自体、革命的な一大事だが、そこで信長が断行したのが楽市楽座。
だれでも商工業につくことを許し、取引きも自由、取引税的な税も撤廃して、商工業自由化を断行したのだ。このため、外来商人つまり、外来の藩からの商工業者の市場参入も自由になったことで、商工業品の流通が広がり、経済が活性化したのが大きい。
そんな現代の楽市楽座といえる「構造改革特区」が、ようやく遅ればせながら実現し、このほど民間の自由な活動を進める事業五十八件が認められた。どんな現代流の楽市楽座がスタートするのか。
例えば、小中高の一貫教育高で授業を原則 として英語で教える外国語教育特区(群馬県太田市)やワインメーカーが原材料のブドウを直接栽培するワイン産業振興特区(山梨県)などが代表例。ほかにも、農地を株式会社に貸してオリーブ加工業を育成、町村独自に教員を採用して地元密着の教育を実施、県公社の塩漬けとなっている土地を企業に貸してトマト栽培、二歳児でも幼稚園入園など、さまざまな特区が誕生した。
逆に言うと、こうした事業は、これまで法的な規制や制限があり、自治体や企業、民間人、NPO(非営利組織)などはアイディアがあっても、身動きできなかったものだ。日本は、海外から「規制経済の国」と批判されたが、こう見てくると、なるほど、規制や制限がいかに多かったかが分かる。
こらからも、国立大学の施設を企業が借りやすくしたり、港の通関を二十四時間使えるようにする規制緩和、さらに企業の参入が限られている医療や教育、農業の分野でも規制緩和や撤廃を進めていったら、競争が激しくなり、事業の効率化も加速し、経済は元気づくに違いない。
四世紀以上も前の戦国時代に、信長が“国替え”をめざし断行した楽市楽座。これからも「歴史」を学ばねばならない。
風 (5月号2003.5)
山口県下関市。多くの歴史舞台となり、韓国・釜山や九州と結ぶ交通の要衝の地でもある下関を訪れて、ひとつの・発見・があった。なんと至る所に銅像や石碑など記念碑が立ち並び、「おらがの街」をアピールしているのだ。
米国でも欧州でも中南米諸国でもいい。海外の都市では、街のあちこちに行き届いた広場があり、そこに歴史を感じさせる重厚な教会が並び、もうひとつ、歴史的人物の銅像が威厳を正している。日本でも各地に銅像や石碑が見られないわけではないが、外国の都市に比べると圧倒的に少ない。
下関といえば、まず、「フグの街」のイメージが強い。が、釜山を結ぶ関釜航路の窓口であり、九州と直結する関門(門司)トンネル(海峡)の本州側の出発口でもある。それ以上に、下関市を含めた山口県は、高杉晋作、山縣有朋、伊藤博文、松下村塾など、明治維新発祥の地ともいえるほど多くの歴史的人物を輩出、拠点にもなったところだ。
銅像や石碑は、そんな明治維新の歴史とロマンを思わせる人物や関係者のものばかり。市内には、二千基以上の記念碑が立ち並ぶといが、さらに八月には高杉晋作と坂本龍馬の像を建立しようと、経済界が寄付金集めに躍起になっている。晋作像は、すでに四基も建立されているのに・・である。
むろん、この「記念碑の街」づくりは、歴史の街を背景に、観光おこしを狙ったものだ。が、別の見方をすると、これは市民の「郷土愛」の発露であり、わが街の誇るべき「顔」を訴えようとしていることでもあろう。
こうした市民、つまり地域住民の郷土愛意識や街の「顔」をアッピールしよう志向は、本来、当たり前の発想概念である。「日本の都市(街)には、個性がない」とは、日本を訪れる外国人のコメントである。
本当に日本の都市や地域には、個性がないのだろうか。貴重な個性や特異性があっても、その地域住民が、そのことに気づいていない。あるいは発掘、発見していないというのが真実なのではないか。「記念碑の街」を散策して、それこそ、そんなことに気がついた。
石油から風にーー。欧州に比べて一歩も二歩も立ち遅れている風力発電の動きが、ここにきてようやく活発になってきた。
日立造船は、海に浮かべる発電プラントを開発、二〇〇七年にも風力発電事業を始める。先発の造船、重機の最大手、三菱重工業や石川島播磨重工業なども、洋上での大型風力発電機の開発にしのぎを削っている。
メーカーの開発競争が本格化する一方で、利用者側も風力発電導入の動きが広がってきた。今年1月から、札幌、仙台、東京、大阪、福岡など大都市で開催する大型ライブコンサートに、「グリーン電力(風力発電)」の利用を始めた。
「大量の電力を消費するライブを自然エネルギーでまかなえないか」という提案が二年ほど前からミュージシャンの間に広がり、音楽関係者が三月下旬には、東京・台場で「国際グリーン電力会議」も開く。関係者代表は「日本の音楽ビジネス企業は、他業種企業に比べ、環境問題への取り組みが極端に遅れている。地球を汚して、音楽などあり得ない」と強調する。
各地で始まる「音楽と環境の“共演”は、秋田県の風力発電所で生まれる電力を、日本自然エネルギー株式会社提供の「グリーン電力証書システム」を通じて間接的に利用する仕組みだ。
首都圏の自治体や工場でも、この電力システム導入による風力発電の利用が相次いでいる。昨年の埼玉県越谷市に続き、東京都板橋区でも、四月から利用を開始する。
環境啓発のため設けた施設「エコポリスセンター」に導入するもので、年間三十五万・・時のうち、二十五万・・時を風力発電でまかなう。センターの排出する二酸化炭素(CO2)を七十五・六・削減できるという。
国内の風力発電は、現在、約三十万・・規。国は、二〇〇一年度までに十倍の三百万・・にする計画を立てているが、デンマーク、ノルウェー、ドイツなど欧州各国に比べると、まだ発電量は相当に少ない。経済省の試算によると、一・・時の発電コストは、火力発電が四円に対し、風力が十・十四円、太陽光が四十六円と、クリーン発電では比較的優位に立つが、まだコスト高が問題だ。
しかし、ようやく新エネルギーへの挑戦が始まった。日本では強い風が吹き続ける陸上の適地が数少なく、「洋上発電が風力発電事業の本命になる」との見方が強い。電力会社や新規発電事業参入者に毎年一定量以上の新エネルギーの利用を義務づける「新エネルギー利用特別措置法」が四月に施行される予定で、風力発電に追い風が吹き始めた。
発電コストの競争も激しくなり、陸から海へ風力発電の適地を求める動きは、ますます強まっていきそうだ。
日本は、いま、政治も経済も身動きの取れない「冬の閉塞状況」の谷底に突き落とされたような状態が続いている。政治の〈風景〉を見ると、国際外交も含めて、とても本来のあるべき政治の姿を示していない。経済にしても、深刻なデフレ不況に対し、なんら脱却策が打ち出せない。大胆にして有効な戦略的政策が構築できないのだ。
そんな閉塞状況を前にして、最近、「だからこそ、歴史に学べ」の声が多い。そのせいか、数年前から、例えば、信長(織田)、秀吉(豊臣)、家康(徳川)などに関係した歴史書や人物伝が、改めてちょっとしたブームを呼んでいる。
その信長は、戦国時代の十六世紀後半、全国支配をめざし、ライバルとなる有力戦国大名を次々と打ち破り、その間にいまなら“革命的”といえるような大胆な政策を矢継ぎばやに打ち出した。そのひとつが「楽市楽座」である。
当時の商工業者は、エリートといえる公家や社寺など荘園領主が支配し、独占的経営をしていたが、商品経済の発展に伴い台頭した新顔の商工業者が、この仕組みは「社会発展の障害だ」と批判。中世にあって、非エリートから批判が表面化すること自体、革命的な一大事だが、そこで信長が断行したのが楽市楽座。
だれでも商工業につくことを許し、取引きも自由、取引税的な税も撤廃して、商工業自由化を断行したのだ。このため、外来商人つまり、外来の藩からの商工業者の市場参入も自由になったことで、商工業品の流通が広がり、経済が活性化したのが大きい。
そんな現代の楽市楽座といえる「構造改革特区」が、ようやく遅ればせながら実現し、このほど民間の自由な活動を進める事業五十八件が認められた。どんな現代流の楽市楽座がスタートするのか。
例えば、小中高の一貫教育高で授業を原則 として英語で教える外国語教育特区(群馬県太田市)やワインメーカーが原材料のブドウを直接栽培するワイン産業振興特区(山梨県)などが代表例。ほかにも、農地を株式会社に貸してオリーブ加工業を育成、町村独自に教員を採用して地元密着の教育を実施、県公社の塩漬けとなっている土地を企業に貸してトマト栽培、二歳児でも幼稚園入園など、さまざまな特区が誕生した。
逆に言うと、こうした事業は、これまで法的な規制や制限があり、自治体や企業、民間人、NPO(非営利組織)などはアイディアがあっても、身動きできなかったものだ。日本は、海外から「規制経済の国」と批判されたが、こう見てくると、なるほど、規制や制限がいかに多かったかが分かる。
こらからも、国立大学の施設を企業が借りやすくしたり、港の通関を二十四時間使えるようにする規制緩和、さらに企業の参入が限られている医療や教育、農業の分野でも規制緩和や撤廃を進めていったら、競争が激しくなり、事業の効率化も加速し、経済は元気づくに違いない。
四世紀以上も前の戦国時代に、信長が“国替え”をめざし断行した楽市楽座。これからも「歴史」を学ばねばならない。
島民が住む父島列島と母島列島をはじめ、硫黄島や日本最南端に位置する沖ノ鳥島、最東端の南鳥島など30余の島々からなる小笠原諸島。太平洋に浮かぶその領域は、わが国の経済水域の実に3分の1を占める。戦時中には島民7000人が強制疎開させられ、硫黄島の激戦では2万人が戦死。23年間の占領時代を経て、沖縄返還の4年前(1968年)に、東京都小笠原村として日本に復帰した。だが、同じ外海離島の沖縄と比べ、小笠原の歴史や島民の暮らしが語られる機会は極めて少ない。本土から1000キロを隔てた小笠原の現状と課題を探る。
小笠原への交通手段は、平均6日に一便就航の「おがさわら丸」による船便のみ。
東京・品川の竹芝桟橋から父島二見港までを25時間30分で結ぶ。東京から地球の反対側のブラジル・サンパウロまでのフライト時間(ニューヨークでの乗り換え時間含む)が約22時間半だから、小笠原は世界のどこよりも遠い“国内”となる。
返還以来の島民の悲願である航空路実現は、91年に運輸省(当時)の第6次空港整備5カ年計画で予定事業に採択。東京都は、中型旅客機が発着できる1800メートル級の空港を、父島の北側にある無人島兄島に建設する計画を決めた。だが、環境庁(同)の反対で計画は立ち消え、予定地白紙のまま第7時空港整備に継続事業として採択される。
98年、都はその後の調査・検討を踏まえ、父島の時雨山に建設を決定。予定通り進めば今年着工のはずだった。ところが昨年11月、都は再び建設を白紙撤回、「新たな航空路案を検討する」と発表した。自然環境へ与える影響の大きさと事業費の増加がその理由だ。
「強制疎開から本土の生活を余儀なくされ、返還後、島の復興に携わった先人たちは、空港建設のつち音さえ聞かずにこの世を去った。(中略)返還から空港建設を村民に約束し、33年間も調査検討を行った結論が、空港建設予定地の白紙撤回では、あまりにも島民を軽んじている。東京都はいままで何を検討してきたのか」(宮澤昭一村長の声明文、01年11月14日)。2度にわたる建設計画のとん挫が島民に与えた落胆は大きかった。
14年9月、公明党東京本部(橋本辰二郎代表=都議は、山口那津男・都本部代行(参院議員)と藤井一・同幹事(都議)らによる調査団を小笠原村に派遣。調査団は、空港建設検討地の視察や、へき地医療、住宅事情など島民生活を精力的に調査・視察。村民代表や村議との懇談や島しょの時局講演会を開催するなどの日程を精力的にこなした。
漁協や農協、商工会、観光協会、老人団体や福祉団体、教育関係者らとの懇談の席では、交通アクセスをめぐる「飛行場建設」と「医療・福祉」に焦点が集まった。出席したほぼ全員が、航空路は緊急医療はもちろん、産業振興や村の自立発展に不可欠だと語った。「これまで飛行場実現一本で頑張ってきたが(建設撤回)で島内の事業計画もすべて無に帰した」と参加者の一人は話した。
また、各団体代表からも「自然と共生した空港実現は不可欠」「子どもたちの視野を広げるためにも交通アクセス問題が課題」「最期をここで迎えたいが、最終的には都内の病院に搬送されてしまう」「親の死に目に会えない島といわれている」と空港実現を切望する声が相次いだ。
東京・小笠原村の課題を探る
透明度の高い美しい海。四季を通じて温暖な亜熱帯気候。緑豊かな原生林には貴重な動植物たちが息づいている。小笠原は、一度も大陸と陸続きになったことがないため、生物は独自の生態系をつくり、他の地域では見られない世界的に貴重な固有種が数多く存在する。「東洋のガラパゴス」と呼ばれるゆえんだ。
この豊かな自然の宝庫を守り活用する観光振興策は、村制確立(1979年)以来の大きな柱。マリンレジャーやホエールウオッチングなどで訪れる観光客は現在、年間約2万5000人から3万人、観光消費額は推計14億円だ。農業(年間生産額1億円)、水産業(同水揚げ高5〜6億円、養殖含む)と並び、観光は最大の基幹産業に成長した。
【写真・南島を視察する藤井一都議】
今年7月東京都は小笠原村と自然保護のため一部地域の立ち入りを制限する協定「小笠原諸島における自然環境促進地域の適正な利用に関する協定書」を結んだ。同協定書は、都が昨年11月に示した「東京版エコツーリズム」を事業展開する根拠となるものだ。
エコツーリズムは、近年の自然や環境保護への関心を背景に、旅行者が地域の生態系や生活・文化を損なうことなく行う観光事業。観光客に環境教育を提供し、農業や漁業を含め地域経済に大きな貢献が見込まれる。
小笠原村は90年初頭から観光関係団体とともにエコツーリズムを観光立島の中心に 据えてきた。2年前には、エコツーリズムと世界交流を機軸に基本計画(「ブルーダイヤモンドプラン」)を策定。施策ガイドの育成や自主ルールを盛り込み、村民の合意形成と啓発を着実に進めようと努力している。
昨年11月に発表された飛行場建設(時雨山案)撤回の通知文書に、都は再来年に就航予定の超高速船TSL(テクノスーパーライナー)導入をあらためて併記した現在のおがさわら丸の片道25時間半をTSLは約16時間に短縮。海路の大幅な改善であり、エコツーリズムの本格事業実施開始も、この就航時に目標を定めている。
今年9月の党東京都本部小笠原小笠原調査団に参加した藤井一都議は、自然環境保全促進地域に指定された南島をチャーター船で訪問。島上陸に際し、乗船前に靴などに付着している移入種(島内の生態系に悪影響を与える植物の種子)をブラシではらい、定められた自然観察路を担当者のガイドを受けながら視察した。藤井氏は「豊かな自然を次世代に確実に受け継ぎつつ、より多くの人々に小笠原の自然に触れていただきたい。だが、村にとって産業振興策は航空路開設と同様に死活問題。訪れるが側でなく、そこに暮らす人々の視点が重要だ」と指摘する。
TSLの安定採算ラインを保つには、現在の倍となる5万人の観光客が必要だといわれている。また、そのためにも本土との情報通信格差の是正や宿泊施設の整備も急務の課題だ。住民にとっても、観光客にとっても毎日の足となるべ航空路の不備は大きい。
エコツーリズムのお手本ともいえるエクアドルのガラパゴス諸島には二つの空港が存在する。グレートバリアリーフ(世界最大の珊瑚礁で有名)を有するオーストラリアのケインズは、海外と国内各地を結ぶ大規模な国際ハブ空港となっており、世界中からの訪問客が後を絶たない。
日本が世界に誇れる自然を生かした小笠原の観光振興策は今、正念場を迎えている。 (この連載は公明新聞に掲載されたものです)
1944年、本土防衛の最前線基地となった小笠原小笠原諸島の島民6、886人(硫黄島1、098人)は、制限された手荷物・風呂敷包み2個を抱え、幼子の手を引き、着の身着のままで本土に強制疎開させられた。15歳から60歳までの男子825人(同160人)は軍属として島に残された。
45年2月19日、米軍の上陸で日本国内における最初の、し烈な上陸作戦が始まる。愛する父母や妻子との離れ、孤立無縁の孤島に留まった日本軍2万余人は、圧倒的な米軍に対し、食料も水もない灼熱の地下壕にあって、持久戦を展開。3月末に玉砕を遂げる。米軍も約7000人が戦死した。
戦後、強制疎開させられた島民は慣れない内地で散り散りバラバラの生活を強いられ、とくに硫黄島の島民は、返還後も厳しい自然条件などを理由に今日も帰島は許されていない。現在、島には約400人の海上・航空自衛隊員とその関係者が、基地業務のほか気象観測や災害派遣(急患の輸送)などを行う、文字通り基地の島となっている。
14年9月の党小笠原調査団に参加した山口那津男参院議員と藤井一都議らは、父島で「小笠原村在住硫黄島旧島民の会」(宮川章会長)の代表と懇談した。席上、高齢化し当時を知る人々が減少していく現状や、民間人である旧島民が近年まで遺骨収集に参加できなかった経緯、自衛隊の不発弾の処理作業と並行して行われる活動の困難さ、限られた時間内に駆け足でしなければならなかった墓参・など家族を失ったメンバーの話に真剣に耳を傾けた。
硫黄島で戦死、いまだに遺骨が戻らない身内を持つ山口氏は、「外地ではない日本の領土内で、ここだけ遺骨収集ができていない。軍属として一族を代表する若い人たちが島に残され、尊い命を失った遺族の心情を思うと、特別の集中的な遺骨収集活動を行い、一日も早く戦後の決着をつけなければならない」と語気を強めた。
昨年6月、小笠原村は40人の宿泊が可能な「硫黄島平和祈念会館」を硫黄島に建設。58年ぶりの故郷の一夜を過ごした旧島民は、「初めてゆとりある供養ができた」と涙を流した。だが、いまだ終わらぬ硫黄島の戦後の処理は国の責務であるはずだ。
厚生労働省によると、2002年8月までに硫黄島の戦没者遺骨収集は延べ45回。8329柱の遺骨を収集。76年度から始まった遺族の訪問慰霊は9回の実施となっている。
国は、この島々の地理的、歴史的特殊性をかんがみ69年、小笠原諸島復興特別措置法を公布。同法は、以後5年ごとに延長を重ね、現在の小笠原諸島振興開発特別措置法に引き継がれ、島民の生活安定と地域の自立発展の促進、経済と福祉の向上に、大きな力となっている。
小笠原の調査を終えた山口氏と藤井氏は、2003年度末に切れる同法の改正と延長をはじめ、航空路実現や父島・母島間の格差是正、情報通信体系の改善、医療・福祉施策の拡充など、島に暮らす人々の声を踏まえ、関係当局に3度にわたる申し入れを重ね、上京した小笠原村議団と意見交換するなど、問題解決に全力を尽くしている。
今年、返還35周年を迎える小笠原。山積する課題を乗り越え、平和の尊さを語り継ぐ真に豊かな島々になり得るのか。そこに、わが国の“政治”が問われている。
(この記事は2002.11月に公明新聞に掲載されたものです)
青森県六ケ所村といえば、「開発の村」として知られている。核燃料サイクル基地が着々と整備され、中核となる再処理工場が近く試運転を始める。一方で、地域の特性を生かし、風力発電、液晶、フラワービジネスといった新事業も芽吹いており、ひと昔前とは様変わりの開発先端の村として活気づいている。
本州最果て下北半島の付け根、15年前ほど前までは気象観測の鉄塔が立つだけの寒風が吹きすさぶわびしい更地だけの寒村だった。30年前、その広大な更地が“武器”となって、国家的工業基地の候補地として脚光を浴びたが、石油コンビナートを中心とする当初の計画はとん挫、空中分解した。
代わって登場したのが、これも広い更地とへき地が着目され、核燃料サイクル基地。こちらは、ほかに候補地がなかっったこともあり、日本原燃が10年前に使用済み核燃料再処理工場を建設、ようやく2005年に操業開始を見込んでいる。人口2000人の村に、毎月延べ20万人近い作業員が働く。建設費2兆1400億円の大事業だ。
建設工事は、一応、順調だが、再処理工場を取り巻く環境は厳しい。取り出したプルトニウムを原発で燃やす「プルサーマル計画」は、実施場所が決まらない。電力自由化で、核燃料サイクル事業の経済性の問題が指摘され、この背景には原発への“逆風”もあり、工場の行方に微妙な影を落としている。
このため、地元には、急速に「核燃だけに頼っては村の発展はない」という声が高まった。さて、何をどうしたらいいのか。村には、もう一つ“武器”があった。地形、地理的に原野は、常に海からの強風が吹き荒れている。「風力発電」に絶好の場所として、村挙げての企業誘致に乗り出す。
風力発電事業者の「エコ・パワー」(本社・東京)が進出、22基の風車の設置が終わり、来春には営業運転が始まる。別の発電企業の進出も予定されているという。
再処理工場の隣接地には、液晶用カラーフィルター生産工場も、昨年7月に操業を始めた。夏の冷たく湿った、この地特有の季節風「やませ」のおかげで、空調コストが節約できるメリットがあった。
トヨタ自動車も、やってきた。といっても、関連会社で、冷涼な気候を生かそうと、花きの生産販売会社を設立、アジア最大規模の温室を造った。東京ドームのグランドの1・5倍の面積に、ミニバラやニューギニアインパチェンスなど、赤や紫の花が、この北国に咲き乱れている。
企業が増え、人が増えれば、立地企業の社宅なども増え、商店街も活気づく。猫の目のように変わる国の開発に振り回されながらも、これを起爆剤にし、さらに地域の特性を“売り物”にして、全体プランによる地域おこしを展開してきた成果といっていいだろう。
地域の特性や立地環境を見抜き、それに立脚して何ができるか、その目標とプランの実現に向け、どう戦略的に動くか|これが地域おこしの原点だろう。
2002.10月号
地域おこしも観光おこしも、まず必要なのは・環境づくり・である。目標(目的)を達成するためには、達成するための環境整備、つまり、そうなるための・道具立て・をつくる。・素材・を計画的に積み上げ、・条件・を満たしていく努力が必要である。その点では、計画的、戦略的、ソフト的な実行力を持った「政策」あ求められるわけだ。
そうでないと、単に思いつき、一過性のアイディアでしかなく、目的実現には程遠い。「政策」とは、とてもいえないだろう。
小笠原村がめざすひとつの目標は、地域おこしの一環としての観光おこしであろう。小笠原が復帰して、もう幾年の歳月が経つのか。「観光の島へ」の夢は、だいぶ以前からあったはずだ。観光立島への計画的で地道な環境づくりを、いったい、どれだけ積み重ねてきたのだろうか。
常夏の地で青い海に囲まれているからといって、単発でホエールウォッチングだ、ダイビングだと掛け声をあげているだけだけでは、安定して観光・レジャー客を惹きつけておくには限界がある。島まるごとが・本物・の観光の島にはなり得ない。
では、どうしたらいいのか。身近なところで、環境立地が似ている観光の島、ハワイやグァムを見てもらえば、分かる。二つの島は、見事な観光立島で賑わっているが、日本からの観光・レジャー客は、単に「常夏(避寒)の島だから」「波乗りやホエールウォッチングを楽しみたいから」という理由、動機だけで行くのではない。日本の本土とはひと味違う常夏の楽園というロマンの夢をイメージして、そういう楽園にひととき身を置いてみたいという動機が足を運ばせているのだ。
観光に行く、レジャーを楽しむ、旅に行く、ということは、ひとときを日常の日常的な生活から脱け出し、非日常性の快適な環境の中に身を置きたいという欲求があるためだ。そういうニーズや願いを確実に満たす環境、条件をまず創り上げる事から始めなくてはならない。
そういう点でいうと、小笠原の島も、ハワイやグァムのように、本土とは違う「常夏の島」のイメージを与える環境を創り上げる必要があろう。いくら気候、風土が「常夏」でも、街並みや環境的雰囲気などが、本土と同じであっては、観光・レジャー客は「常夏の島にやってきた」という心地よいロマンチックな気分に耽れない。
南国の光輝く太陽と青い海。それにマッチした、清潔であか抜けした街並み。緑のじゅうたんを敷きつめたような芝と、南国の咲き乱れる花々。明るい色調で統一した家々。醜い電柱、電線の放置など、論外である。亜熱帯特有の貴重な植物群を持っていることは、その点で小笠原の強味でもある。
初めにそうした環境づくりがあってこそ、来訪者は「憧れの南の島にやってきた」という非日常性の感動を持ち、・旅心・を刺激するのだ。レジャーそのもののインフラづくりは、その次の話である。
「ローマは一日にして成らず」。「南国」への環境づくりは、だからこそ、明確な目標を持って、計画的に一歩一歩築き上げていかなくてなならないわけだ。
NEW!(2002.4、8)
北海道旭川市から八十・ほど北東部の酪農の村、西興部(にしおこっぺ)村。この人口約千三百人、六百世帯の小さな村は、いま、全戸になんと光ファイバーを導入、敷いている。国が揚げる「ファイバー・トゥ・ザ・ホーム計画」を先取りし、雪深い小さな村の生活が変わろうとしている。
「三階級特進」のような、あっと驚く光ファイバーの全戸導入。このきっかけは、村当局のそれこそ挑戦的で戦略的な狙いからだった。
「平成元年に難視聴対策でスタートした村営CATVのケーブルが更新時期に入ったのを期に、多彩な可能性を持つ光ファイバーに切り換えれば、農業や福祉など多彩な分野で活用が広げられる。村民の生活が革命的に変わることを信じて、思い切って決断した」と村の企画課ではいう。
ファイバー敷設工事はほぼ完了し、間もなく本格スタートするが、すでに昨年十二月から一部で試験運用を始めている。
三百二十頭の乳牛を抱えるKファームの役員は、「酪農経営が画期的に変わろうとしている」と強調する。「前後左右に回転するズームレンズや強力ライトのおかげで、牛達の様子が手に取るようによくわかるようになった」と話す。
光ファイバー経由で牛舎の内部の映像が、監視ロボットで現場で見ているようにわかる。酪農家は、分娩牛や病畜を警戒するため、三・四時間ごとに見回る必要がある。雪の夜など足を運ぶだけでも大変だ。監視ロボットは、この労働負担を大幅に減らす。奥行き六十・ある牛舎でも、入り口付近に取り付けたロボットから一番奥にいる牛の白い吐息までが自宅で鮮明に確認できる。「小規模な牛舎なら、見回りはほとんど不要になっている」(村企画課)という。
福祉の分野でも、生活がガラリと変わった。独り暮らしのYさん(七六)は「いつも専属の保健婦さんがそばについてくれているみたいで、とても心強く安心です」と話す。Yさん宅には、光ファイバーで役場と結ばれた在宅健康管理端末が設置されている。
Yさんは、起床直後と就寝前に、健康管理端末で血圧と体温を測定するのが毎日の日課。データは、そのつど自動的に役場に送られ、保健婦がチェック。問題があれば、即座に入院などの措置がとられる。また、端末で「相談」のボタンを押すと、待機していた保健婦がテレビ電話で登場。患部を診てもらいながら、相談に応じる。
これまで十日おきに通院していたYさんは、おかげで通院回数がだいぶ減った。「腰と間接が痛いので、通院は大変。いまは不安もなくなり、端末を取り付けてよかった」と喜ぶ。
光ファイバーの導入で、小さな村の生活は一変した。酪農家たちは、次は経営管理や牛の個体データベースなどの作成を計画中で、経営向上に役立てたいという。福祉面では、高齢者宅の居間にセンサーを設置、万が一に備えて光ファイバー経由で常時見守る「安全システム」を検討している。
村は、昨年十二月、遊びながらITを体感できる「マルチメディア館・IT夢(アトム)をオープンした。小さな村の情報化拡大の拠点である。近く光ファイバーが本格稼動すると、雪深い村に活気がよみがえり、村の姿は大きく変わっていくに違いない。
「福祉」こそ成長産業・・安心して老後の人生を送るには、いま話題を呼んでいるように保健、医療、介護のサービスが欠かせない。そこで、福祉を充実して、最大の産業に育て上げ、雇用を増やして経済を活性化させた町がある。広島県の尾道市に隣接した御調(みつぎ)町だ。目ぼしい産業もない過疎地である。人口約八千三百人。小笠原村の三・五倍ほどの人口だが、三割が六十五歳以上で、三十年後の日本の全国平均を示す典型的な過疎高齢地域である。
この町が、全国でも注目を集める福祉先進地となった。「ローマは一日にしてならず」である。やるべき「目標」を決めたら、あらゆる政策を総動員して、計画的かつ果敢にアタックすることだ。二十年前のことである。福祉の強化、充実をめざし、まず役場の厚生課と住民課の一部を、なんと公立の「みつぎ総合病院」(二百四十床)内に移し、保健、医療、福祉の一本化に踏み切ったのだ。なんとも大胆な・行政改革・ではないか。
専門の医療を提供する病院と行政の窓口が隣り合わせとなり、地域医療の第一人者といわれる山口昇医師が、病院と施設の管理者、保健福祉課長、介護保険課長と・一人三役・のポストについた。
医療と福祉の垣根をなくした結果、住民の求めるサービスを総合的、効率的に提供できるようになった。「施設を一体的に整備し、在宅ケア、健康づくり、住民参加を進め、地域を包括したケアシステムを構築している」(山口医師)という。
保健福祉総合施設の中には、常時介護サービスを提供する特別養護老人ホーム(百人)が整備され、ほかに家庭復帰をめざしてリハビリと介護を組み合わせた老人保健施設(百五十人)や、リハビリテーションセンター(十九床)、痴呆疾患センター、訪問看護ステーション、食事・入浴・緊急対応付きケアハウス(三十人)などがズラリと並ぶ。
軽い痴呆の高齢者が共同で生活するグループホーム(九人)と、末期の患者を支えるホスピス(五床)も近く完成の予定だ。同施設が完成すれば、高齢者の健康状態に応じて必要な各種のサービスを組み合わせて使える医療・介護の一貫体制システムが整う。
在宅医療のほうも完璧だ。保健婦や看護婦がホームヘルパーと一緒に百七十人の高齢者を二十四時間体制で訪問している。家族の健康状態を常に調べ、健康づくり座談会や介護教室・機能訓練教室の回数も多い。
ボランティア提供者が圧倒的に多いのも特徴だ。
ボランティアした時間を貯蓄する福祉バンクの会員は千七百人を超す。町の合い言葉は〈助け合い、みんなで支える健やかタウン〉。
各種の施設やサービスを町が運営しているため、福祉関係の予算は、当然ながら膨れ上がり、八十億円を超す。国のモデル事業補助や県営施設の移管などを受け、やりくりしているが、負債も多い。
しかし、同町は二十年前から訪問看護や訪問リハビリなどの、・出前医療・に取り組んでおり、その成果として、寝たきり老人の割合が三分の一以下に減った。しかも、在宅医療はコストが安く、自宅で暮らしたいという高齢者の希望もかなえられる。その上、高齢者の長期入院も減り、診療報酬が減額されないので、病院経営も黒字になった。
医療圏域の人口は、周辺市町村も含め、七万人弱に達し、施設利用者も広域圏からやって来る。
充実した福祉を求めて、同町に移住してくる人も増え、Uターン組も目立つ。「医療福祉関係の雇用は五百人以上に拡大」(同町)して、過疎化にも歯止めがかかり、町は急速に活気づいている。
同町は、平成十七年に尾道市と合併するが、山口医師は「福祉は、町の成長を支える最大の成長産業になった」と強調する。福祉で尾道市をひっぱっていくことになるかもしれない。
2001年新年号
小笠原の「地域おこし」、特に「観光おこし」を考えるなら、まず小笠原の・武器・ともいえる〈南の島〉(南国)を演出することから始めることだ。
澄み切った青い空とまぶしいまでに輝く太陽とオゾン。大海原と白いビーチ。濃緑の街路樹と豊かな芝、咲き乱れる花々。例えば、「白」で統一された清潔感のある街並み、となれば、まさに〈南国〉のイメージを訴えることになる。日本人が、あのハワイやグァムに足を一歩踏み入れると、「日本を離れて、南国にやって来た」という、こんな感動を抱くに違いない。
さて、こうした〈南の島〉らしいたたずまいを創り上げたうえで、次に本土からやって来た観光客をひきつける、いくつかの観光ポイントを手塩にかけて育て上げていくのだ。
小笠原には、観光客を魅了する観光資源がいくつかある。第一は、なんといっても、本土にはない小笠原ならではの貴重な亜熱帯生の植物群をを保護、保存しながら、植物園に仕立て上げることである。
固有の樹木や草花など、小笠原でしか決して見られない○○種に及ぶ特異な植物群。奥日光と隣り合わせに、水バショウで有名な尾瀬がある。尾瀬といえば、水バショウ。夏が来れば、ぞの尾瀬沼に水バショウを鑑賞するため、足を運ぶ。あぜ道の上に何枚かの気の板が置かれ、観光客は、その「木の道」をゆっくり歩きながら、両側に美しく咲き誇る水バショウを楽しむ。
「木の道」は、沼地の中を歩きやすいように、さらに貴重な水バショウを保護するために取り付けたものだ。自然を保護、保存しながら、見事に観光資源にも活用しているのだ。小笠原の植物群も、このように楽しく散策しながら鑑賞できるよう、自然に優しい、「鑑賞の道」をつくるなどして、観光化をめざすべきだろう。
小笠原島は、かつては捕鯨の基地で、ミクロネシア系人種が初めて足を踏み入れた・異人の島・という点でもユニークである。日本の領土となったのは、わずか百五十年前のことだ。であれば、小笠原の島の歴史博物館と、かつての・異人の島・の姿を観光用に再建するのも楽しい観光ポイントとなろう。
一方で、南国の青い海をほおっておく手はない。小笠原の海は、本土の海と魅力度が違う。限りなく自然の海である。ハワイのような南国の白いビーチ。この「黄金の砂浜」をインフラ整備して、目玉のひとつにするべきだ。これからのビーチの利用の仕方は、本土の鎌倉や江ノ島のような海水浴場ではない。ハワイやニース(フランス)、コパカバーナ(ブラジル・リオデジャネイロ)のように、南国のオゾンと潮風を楽しむ場である。だから、ビーチの近くには、まぶしい太陽の下でたっぷりスイミングを満喫できるプール施設がなくてはならない。
もうひとつ、これも小笠原ならではの若者に人気のあるスキューバダイビングとホエール(またはドルフィン)・ウオッチングを楽しめるしゃれたインフラ施設を整備する必要がある。こうしたレジャー・リゾート施設は、明るく清潔で、スマートであか抜けしたものにしなくては、今の若者には「ダサイ」と一喝されるだけで、引きつけられない。
観光おこしをめざした環境づくり。これを「モノづくり」と見るなら、このモノづくりは、ニーズを満たすだけでなく、ニーズにプラスしたなんらかの味付けと付加価値をつけるのがコツである。これからのレストラン(食堂)は、ただ食べ物を提供するだけでなく、賞味、価格とともに、そこに楽しさ、快適さ、満足度を与える何かをつけ加えないと、若者には見離されてしまうのだ。
2001.10月号
都市でも町(街)でもいい。あるいは本土から遠く離れた島でも同じである。その地域には、その地域ならではの自然環境や風土、地勢学的条件や歴史、さらに言えば、その地域の発展過程や特異性・・などがある。
地域おこしの第一のポイントは、その地域ならではの特異、独自の「地域性」に着目し、その地域性を、「素材」にして、これを加工、地域おこしへの製品化、商品化に実らせることである。
そうであればこそ、その地域ならではの、他地域と異なる差別化した・特化商品・が創造でき、花を実らせることができる。
これまで三回にわたり紹介してきた、米国アリゾナ州の人工的に創り上げたシニアタウンも、地域の特性を生かし、発展させた成果だった。何よりも温暖な気候、緑の自然環境、湿気の少ない風土。シニア層が生活を楽しむには、うってつけの地域環境である。そして、行政と民間業者が一丸となり、シニアタウンづくりへ徹底してインフラ整備を急いだのである。
小笠原を考えてみよう。地域(島)の特性は何か。まず、本土から南へ一千・離れた本土とは明らかに異なる常夏、亜熱帯地域である。常夏の島は、本土にはない太陽の光、青い海、肌をなぜる空気まで光り輝く。見る人が見れば、貴重な亜熱帯特有の植物群の緑の色も新鮮だ。常夏の地の土の色も、本土では決して鑑賞できない、異質のものに違いない。小笠原の島は、本土からはるか遠距離の辺ぴな離島というのが、一つの常識となっている。しかし、コインには裏表がある。逆に見ると、本土から一千・離れた「離島」こそが、本土とは異質の亜熱帯、常夏の特異の地域性をもっているのだ。
まず、こうした亜熱帯、常夏の本土では持ち得ない「南国性」を地域おこしの素材にしない手はない。
南国の島といえば、ハワイやグァム、スペインのマジョルカやマルタ島などが有名だ。
たとえば、ハワイ島。あの明るい光り輝いた太陽のオゾンと濃緑の樹木と芝生。澄み切った青い空と白塗りの住み家。一幅の絵を見るような清潔で美しい南国の街並み。
だからこそ、健康的な夏のリゾートの島に発展した。地中海のマジョルカ島も、そこに地域的特性としての歴史と文化を織り込んで、地中海のリゾート地が誕生した。
地域おこしとして、小笠原を観光・リゾートの島にしようというのなら、常夏、亜熱帯の地域特性を土台にして、本土では決して築き上げられない南国特有の、まず島づくり、環境づくりを急がなくてはならない。
南国の地域特性が素材なら、島づくり、環境づくりのためのインフラづくりが、製品化、商品化のための加工である。この加工こそが、知恵を出す勝負どころである。
第一に着手したいのは、街並みの改造であろう。ハワイのように、あるいはマジョルカのように、「南国」を訴える緑の樹木とオープンスペースは芝を植え込み、南国の花に囲まれた街並みに衣替えすることだ。楽しく散歩、遊歩のできる幅広い歩道もつくりたい。せめて目抜き通りぐらいは、外国では当たり前の電線の地中線化もしたい。一方で、しゃれた街路灯も考えたい。
建物も、南国らしい色調に統一したい。建物の形、デザインも、南国の小笠原をイメージできるものに統一できれば、個性が打ち出せる。
こうして、緑の樹木と芝、花、幅広い歩道、電柱電線の撤去、おしゃれな街路灯と統一した建物の造り・・そんな街並みの改造がある程度進めば、本土からの観光客も島に足を一歩踏み入れたとたん、「南の島にやってきた」という実感を持つに違いない。
「南の島」つまり本土とはイメージ、感触が違う地にやって来たという異質感こそが、「旅をした」という楽しい感動を与える出発点なのである。「観光おこし」を考えるなら、まず、この出発点を整備することから始めることである。
日本で「シニアタウン」といえば、人生の”余生“を送っているような沈滞した街を連想しがちだが、このサン・シティー・ウェストのシニアタウンは、まるで違う。
朝八時半、タウンの一角で、朝の街の風景を眺めていた。ボランティアなどで、タウンの管理協会やタウン内の病院、レストラン、音楽ホール、図書館などに向かうタウン居住者が以外に多い。いかにもアメリカ人らしく、「グーモーニング」と威勢のいいあいさつの言葉をかけ合いながら、過ぎ去っていく。中には笑い声も聞こえる。
タウン外からの郵便車や販売関係の車、乗用車でやってくる人も多い。一方で、朝からジョッキングやウォーキングを楽しむシニアマンも目立つ。シニアタウンというより、たくましく生活を楽しむライフタウンという印象である。
三年前にシカゴから移り住んできたマイケル・エドワードさん(61)夫妻の住まいを訪れてみた。むろん、生活は夫妻の二人で、奥さんのキャロンさんは六0歳。
「機械メーカーの技師をしていたんだが、とにかく早く引退をしたくて、五十四歳でリタイアしたよ。シカゴの冬は寒くて、暖かい州に行って、老後の人生を楽しみたかった。妻も喜んで、ここに来たんだ」と、早口で話す。奥さんのキャロンさんも「近くにゴルフ場がいくらでもあるので、楽しい。しかも、このアリゾナ州は、常夏の場所だが、実は同時に春夏秋冬の自然も満喫できるのよ」という。
ちょっと北の二千・級の山に行けばスキーを楽しんだり、高原の湖や咲き乱れる花を鑑賞したり・・。高低差があり、変化に富む風土なのである。
十一万・(約千三百二十万円、一・・一二0円換算)で購入したという住宅は、敷地が約二百坪、平屋建てで二十畳ほどのリビングと寝室とトイレ、洗面所、バスがそれぞれ二つずつ、それにキッチンともう一つ十畳
ほどの書斎兼用のリビングがある。住宅の建て面積は七十坪ほどだ。
日本人の常識では、夫婦二人だけでは広すぎるくらい。「寝室やトイレ、バスを二つ備えたのは、バージニア州やロスアンゼルスに住んでいる三人のこどもが孫を連れて、それぞれ毎月やってくるため。親とこども、孫と三代そろってファミリーパーティーをやるのは最高に楽しい」という。
それにしても、ひとつの疑問があった。
「一日も早くリタイアしたい」と言っていたエドワードさんだが、まだ、すこぶる健やかだ。日本的感覚で「毎日が退屈ではないのか」と聞いたら、すかさず「ノー。忙しくて・・」という答え返ってきた。
エドワードの日課は、朝は一時間ほど軽いジョッキングとウォーキング。朝食後、午前九時から午後一時まで図書館で、研究中の植物の勉強と読書。午後は、ボランティアで管理協会の職員となり、午後三時過ぎから夕方六時半ごろまでゴルフ。ゴルフを終え、一汗流してからは、仲間とレストランで賑やかな夕食。
「仲間とそれぞれの家でパーティも多いんだよ」という。「夫婦とも退屈どころか、毎日が忙しくて」と話す。
このようにタウン居住者がそれぞれ忙しいライフを楽しんでいるとなれば、シニアタウンに活気が出るのも当然であろう。そして、なによりも人生を楽しむためのシニア群団からの幅広い「需要」が創出され、それがまたタウンに活気をもたらすというわけだ。
カートンが街を走る
アリゾナ州は、米国の最南端に位置し、年間の平均気温は二十五〜四十度の、いわば常夏の州。ただし、湿度は常に二十%以下だから、暑くてもカラッとしており、意外に爽やかである。気候、風土だけを見ても、シニアやオールドシニア層が住むにはうってつけのところだ。
東に三十・も行けば、人口二百万人の州都フェニックスの都市があり、年間四百万人の観光客を集めるグランドキャニオンは、ここから四百・北東の所にある。
サン・シティー・ウェストのシニアの街に一歩足を踏み入れてビックリしたのは、道路を走るのは自動車ではなく、ゴルフ場で走るあのオートカートンばかりであることだ。五十五〜七十歳代の”老男老女”が、ゆうゆう運転をし、街中の散歩ならぬ”走行”や買い物などを楽しんでいる。無公害、無騒音のエコの街なのもいい。
シニアの街の住環境が、これまた見事というほかない。人工的に創り上げた分譲方式の住宅街というと、わたしたちは、マッチ箱を並べ建てたような無秩序の密集街を連想するが、全くの別世界である。後楽園ドーム球場二十個分の大きさのこの街は、住宅分譲会社が造成、建築、売り出したものだが、平家の戸建て住宅が約一万二千戸。人口は二万五千人の規模である。
五百平方・程の敷地に、緑の樹木に囲まれて個性的な家が建ち並び、各戸の広い庭には、南国の花が咲き乱れる。訪れたのは五月中旬で、気温は三十五度を超えていたが、低湿度のため汗はほとんど出ない。木影に入ると、ひんやりする環境だ。
さらにビックリしたのは、シニア向けのインフラ施設が完璧に整備されていることである。住宅街の随所に、音楽ホール、劇場、美術館、図書館などが設置され、東西の二カ所に商店街やスーパー、コンビニ。そして診療所や病院、ヘルスセンター、体育館など。隣接した広い公園の周辺には、なんと野球場、サッカー場、テニスコート、室内外プールからゲートボール場まで完備しているのだ。
一年前に北のシアトル(ワシントン州)からサラリーマンをリタイアして夫婦で移ってきたというジョン・ウィルソンさん(56)は「ここは、第二の人生を快適に暮らすには最高の条件が備わっている」と話す。
このシニアのタウンには、なんとカートンで十分以内の所にゴルフ場が七つもある。ウィルソンさんは「何よりもゴルフ場が近くに沢山あるのが気に入った。妻がいつも風邪をひく体質なので、温かくて湿度の低いところは最高。各種の施設が充実しているのも魅力的だった」という。
日本でシニアの街というと、老人の街、つまり沈滞したゴーストタウンを思いがちだが、サン・シティー・ウェストは、中高年齢者が思い思いに活動する活気のある街で、大きくいえば、アリゾナ州の地域おこしとしても成功した例といっていい。
地域おこしは、その地域の気候、風土、文化と歴史など、その地域ならではの特性を見極め、この特性を生かして他にない特化した何かを開発ーーするのが、まず基本的戦略である。
その点、小笠原の島は、アリゾナ州と同様、気候温暖な常夏のエリアで、しかも本土にない風土、歴史がある。次回は、シニアの街がどのようにして誕生し、成功への条件は何なのかなどを紹介していきたい。
NEW!【連載】6(2001年1月号)
一本の「川」も、そこに人をひきつける魅力や特性を作り上げれば、立派な観光資源となる。高知県西部を流れる延長百九十六キロの四国最長の大河・四万十川だ。
四万十川の魅力は、「日本最後の清流」といわれる美しい自然と満々とたたえた豊かな清流である。過疎で残された流域の豊かな自然が、環境保護・エコブームの中で、脚光を浴び、全国に一気に知れわたった。カヌーなどアウトドアの人気も加速し、いまでは県外から七十万人を超す若者や家族連れが訪れる。清流を生かした健康・スポーツイベントなど新しい振興策も進んでおり、高知県ではトップの観光ポイントとなった。
四万十川は、四国の中央山脈に源を発し、最南端の中村市内を経て、太平洋に流れ出る。真相を言えば、開発が遅れ、水力発電施設や護岸工事などに着手されなっかたことが幸いした。
「豊かな自然と清流」を“売り物”にしようと県が決定してからは、いっさい人工の手を加えなかった。
下流の中村市に住む沢田佳長さん(64)(日本鳥類保護連盟評議員)は、地元の川の自然、素朴さに注目し、一九七〇年代から毎年飛来するツルの観察、科学雑誌などに紹介し、ブームをつくり上げるキッカケもつくった。流域に飛来するツルは、四万十川の貴重な財産でもあった。
川には、古くから残る木橋の沈下橋(洪水時には水面下に沈み、姿を消す)をそのまま改修もせず残し、鉄・コンクリート製の立橋はいっさいつくらない。自然景観にマッチした杉皮ぶきの屋形船が受け、一社だった観光船業社がいまでは七社に急増した。
中流の西土佐村での全国カヌー競技大会はすっかり有名となり、下流の中村市内にもカヌーの貸し出し施設ができ、昨年夏は七千人以上の観光客が利用した。毎秋、川添い百キロを走るウルトラマラソンも人気を集め、県外を中心に定員(千五百人)の二倍を超す応募者が殺到している。春の水辺ウォーク、夏の水泳マラソンなど清流を生かしたスポーツイベントは花盛りで、川辺にはホテルも次々誕生し、“四万十川ビジネス”の参入が相次いだ。
四万十川のお陰で、これまで四国西南端の足摺岬への通過地点に過ぎなかった中村市の街は活気づき、最近は県内を訪れる観光客の二倍を占めるようになった。
川辺の河川敷きは、四国有数のオギの群生地でもあるが、県や市は、さらに川辺の植樹に力を入れている。
美しい自然は、創り上げることでもある。
水質浄化を維持するため、自然木や落ち葉、木炭などを詰めた装置を排水路などに施工する独自の浄化システムも開発、県外から多くの視察団も訪れ、この面でも、いま四万十川は注目されている。
美しい自然の「原風景」がエコブームの中で見直されている。清流とその原風景を特化、そこになんらかの付加価値を加えれば、堂々観光資源となることを四万十川は教えている。
バブル期に“雨後のタケノコ”のように誕生した日本のテーマパーク。さきごろ、調査機関の帝国データバンクが全国の娯楽型テーマパークの経営状況を発表したが、テーマパーク三十社のうち十六社が債務超過、二十一社が二期連続赤字に陥っていることが分かった。
つまり、七割以上のテーマパークが入場客数が期待通り集まらず、経営不振に追い込まれている訳だ。そんな中でディズニーランド(千葉)とともに人気を呼び、注目されているのがハウステンボス(長崎)だ。
九州の西端、長崎空港に近い佐世保市の海沿いにオープンしたハウステンボス。名の通り、オランダの中世の都市をキーワードにしてつくられたテーマパークというよりシティパークといった方がいい。
パークに一歩を踏み入れると、日本の都市(街)とは別世界のオランダのアムステルダム(首都)かロッテルダムにでも飛び込んでしまったような錯覚に襲われてしまう。そこは、日本のゴタゴタした無秩序な無統一な電柱と電線だらけの空間とは次元の全く異なる街づくり。緑の樹木と芝生が街をおおう。緑の芝には、オランダをイメージさせるチューリップが花輪を広げて咲き誇る。
幅広い目抜き通りは、ヨーロッパの中世そっくりの、オランダから取り寄せたレンガ造りの重厚な建物。七階に統一された歴史を感じさせたビルだ。左前方には、これまたオランダを連想させる風車。オランダは、海面より低い埋め立て地が多く、用水路部にまで遊覧船やボートが入ってくる。
前方右手の奥には、ゴシック建築の豪壮な宮殿が街を見下ろしている。どこでカメラを撮っても、オランダで撮ったそっくりの写真になるに違いない。
テーマパークというと、日本ではディズニーランドに代表される娯楽、遊戯パーク、そうでなければ、ゴルフ場やテニスコート、プール、それにレストランなどを組み合わせたものが多い。なにかを見せたり聴かせたり、あるいは何かの施設で楽しませたり遊戯を提供したり、そしてグルメで楽しませたりするのがテーマパークの方程式だ。
しかし、ハウステンボスは、このような紋切り型の娯楽施設は、基本的にひとつもない。ジェットコースターの類の娯楽施設もなければ、テニスコートやプール施設があるわけでもない。
では、なぜ、観光客が多いのか、毎日、生活している都市空間をを離れて、いっきょにヨーロッパ(オランダ)に外国旅行をしているような気分を盛り上げてくれる。そのことが楽しいのだ。パーク内に一歩足を踏み入れるたとたん、わが身を取り巻く環境が一変する。そこは、日頃の《日常性》とは異次元の美しく快適で、外国旅行でもしているような錯覚、幻覚症状に導いてくれる。
ヨーロッパの中世を想わせる美しい落ち着いた街を散策し、眺め、博物館に歩を進め、パンとチーズを食べ、コーヒーを飲み、そして時間に余裕があれば、中世風の五つ星並の豪華なホテルで一泊ーこれで、観光客にとっては充実した満足感を持つのである。
コピーも、ここまで徹底すると、「本物」に化け、新鮮な魅力を創り上げる。《日常性》を超えた都市空間、環境空間を創り上げることができれば、それだけで観光客を呼び込むことができることをハウステンボスは教えている。
いま米国で、ダイナミックに躍進するアリゾナ州が大きな話題になっている。アリゾナ州と言っても、日本ではなじみが薄いかもしれない。州都はフェニックスだが、あの一大観光地のグランドキャニオンを抱えた州といえば、身近に感じる人もいよう。
西海岸のカリフォルニア州とテキサス州にはさまれた亜砂漠地帯で、十数年前までは全米各州の中で、経済的にも最も立ち遅れた“お荷物”の州といわれたほど。ほとんどの州民が他州に出稼ぎに流失してしまい、“切り札”のグランドキャニオンへの観光客も、あの壮大な大渓谷を見たら、その日に飛行機でさっさと帰ってしまう。年間三百万人を超す世界からの観光客も、現地にカネを落さずに素通りしてしまった。
そのアリゾナ州が、二二五年ほどは、全州で一・二位を誇る年五%を超す高度成長を続け、グランドキャニオンとともに州都のフェニックスは、大観光都市に変したのだ。
経済が急成長したのは、なぜか。州政府の企業誘致が成功したのがその一つ。州は、一九七○年代から、ハイテク技術者を養成する技術専門学校を計画的に次々とつくり、人材養成に力を入れた。同時に、環境良好な工業団地とアクセスとしての道路網と空港を徹底して整備、せ遺品流通のインフラを完成させた。
このように変身すると、もともと米国のほぼ中央部に位置するアリゾナは、企業にとって魅力的な州に化ける。モトローラサインテルなどハイテク大手メーカーが次々と進出してきた。大手メーカーが進出してくれば、それに関連した半導体のソフト、ハードの中小企業もどんどん増える。専門学校出の優秀な人材が豊富なだけに、地元出身のオーナー経営の中小メーカーも、続々誕生した。
こうしてアリゾナ州は、過去十年で六十万人を超す雇用を創出、ネバダ州に次いで全米二位、世帯平均所得も五年間で二○%近く増え、失業率は実質ゼロ、「アリゾナは光輝いている」といわれるほどに成長した。
こうした高度成長の中で見逃せないのは、州都フェニックスが全米屈指の大観光都市に飛躍したことだ。グランドキャニオンを観光するだけで素通りした客の三分の二以上が、フェニックスを拠点にして、グランドキャニオンに向かうようになった。フェニックスを魅力ある観光都市に仕立て上げたことで、世界からやってくる観光客の流れを変えさせたのである。
フェニックスは砂漠の植えにできた人工都市だけに、街には歩道などはほとんどない。どこへ行くのも車、完全な車社会の都市構造。雨の降らない砂漠の都市といっても、人工的に植え込まれた樹木で、森の中の都市だ。
五○を超すホテルが、これまた二十一世紀型のスケールの大きな超豪華なのが売り物である。一〜二万人の観光客を収客、ホテル内には、ショッピング街、音楽、ミュージカル、演劇専用のホールからプール、スポーツジムなどを備え、ホテルが一つの街の機能をもつ。ホテルの外には、各種のスポーツ施設からマウンテンや岩登り、ジョギングコース、釣りを楽しむ川や谷まで人工的に創り上げられている。
フェニックスを楽しい都市にするため、三年前に豪華なドーム球場をつくり、プロ野球メジャーチームも誘致、アリゾナ州交響楽団はいまや全米ナンバー1の人気オーケストラで、他州から観光を兼ね、同交響楽団の演奏を楽しみにやってくる客も多い。アリゾナは、まさに知恵と政策を結集して創り上げた長期滞在型の観光都市といっていい。
小笠原村が「観光立島」への“宣言”をして久しい。「観光立島」としての条件整備が、いったい、どれだけ進んだのだろうか。実は、条件整備というより、観光地づくりへの第一歩が、まだ踏み出されていないといった方がいいのかもしれない。観光の島づくり実現には、何をどうしたらいいのか、各地の成功例を見ながら、考えてみたい。
長野といえば、善光寺。その善光寺から、さらに北へ約二十・。新潟県境に近い北信濃の千曲川沿いに人口七千人の小布施町がある。
長野駅からの長野電鉄で行くと、小布施駅は、何の変哲もない田舎のかわいい駅。ホームに降りると、線路を渡り、改札口に向かう昭和の初めの頃を思わせる古風な駅だ。
この小布施駅には、県内外から年間二百万人を超す観光客で一年中賑わう。バスやマイカーを見ると、山形、富山、千葉県など、県外からの観光客が圧倒的に多い。
人口七千人の町に、二百万人を超す観光客。この小さな町が、なぜ、観光客を引きつけているのか。観光客がこの町に一歩足を踏み入れると、古き良き明治、いや江戸時代にタイムカプセルで舞い戻ったような楽しい酔いに襲われる。ちょっとしたカルチャーショックに近い。
時代の風雪を感じさせる白壁の土蔵や酒蔵、二階建ての屋敷。小布施の町の特徴は、こうした古い建造物がただ建ち並んでいるのではなく、いまも日常生活の中で活用、演出されている点である。
一本の古いレンガの煙突のある酒蔵。江戸宝暦期以来二百年余の歴史を持つ「桝一」という屋号の造り酒屋で、いまも酒造りを営んでいる。
酒造り場の一部は、「蔵部」という和食レストランがあり、賑わっている。
江戸時代に塩を貯蔵した塩蔵も、この地の名産の栗菓子やかき揚げ、信州そばなどを楽しめるレストランだ。
この地が生んだ名士の記念館が中心地域に集中してつくられているのも、小布施の特徴でもある。明治時代まで官民、公私が一体化して情報を交換していた広場に、高井鴻山記念館や北斎館などがある。
鴻山は、幕末、若くして京都、江戸に旅立ち、儒学、陽明学、蘭学などを学び、隣の地域出身の佐久間象山や勝海舟らとともに親交を結んだ教育者だったが、帰京して酒造りなどの家業を継いだ。
教育者から、いわば経済人に変身した小布施のボスで、人脈の広かった鴻山が葛飾北斎と知り合い、北斎を小布施に招いた。小布施をになう豪商、鴻山は、北斎の良きスポンサーになったわけだ。
北斎は、ここで有名な「龍・鳳凰」図や上町祭り屋台の「怒涛」図などの作品を残した。
小布施の一帯は、栗とリンゴ、アンズの郷である。特に栗林は、六○○年前の室町時代から点在していたといわれ、以来、長い歴史を経て、小布施名物の栗菓子や栗料理がつくりあげられた。
そうした栗を食材とした食物の味を売る店が軒を並べ、それを囲むように白壁の歴史の館が建ち並ぶ。北斎館や高井鴻山記念館など、随所に配置された数多くの記念館や歴史館が料理の・味の素・のように、観光客を歴史の郷愁とロマンの世界に誘ってくれる。
小さな観光の町、小布施が県内外から多くの観光客を呼び込んでいるのは、町そのものを一つの・歴史館・に仕立て上げ、特化した魅力によるものだろう。村でも町でもいい。必要なことは、分かり易い魅力がある「顔」を創り上げることである。
北緯五十度の寒冷国カナダ・バンクーバー沖に浮かぶオアシスのような温暖なバンクーバー島。世界各国からこの島を訪れる年間三百万人を超す観光客がめざすのは、南国の楽園のようなブッチャード・ガーデンである。
後楽園ドームの約三百倍の敷地に世界から集めた五千種の花が、まるでそれぞれ品評会でもやっているように見事な花輪を誇る。毎年二月といえば、北半球の国は真冬の真っただ中だが、この時期に五千種の花の開花数世界に向けて公表するのが慣習となっているのも、羨ましい。この公表を海外の、特に中、高年齢層の観光客が楽しみにしており、避寒を兼ねて、この島にやってくる。
興味深いのは、このガーデンの創設者が石灰石の掘者であったことだ。自分の敷地である採掘し尽くされた石灰石の石切場を隠すため、ロバート・ブッチャード夫妻が、花でおおわれた造園を思いついた。八十年前のことだ。
ガーデンづくりのヒントになったのが、オアシスのようなこの地の「温暖」という風土の特殊性だった。このとき、夫妻が決意したのは、「ガーデンをつくるからには、最高、最大、徹底特化」をキーワードにしたことだ。
ただのありきたりの造園では、どこにもあり、あきられてしまう。
そこで、世界から集めた五千種の花を、それも一つの花を種類別に細かく植え付け、比べて鑑賞できるようにした。しかも、低木や樹木も観賞用に植え込み、趣の異なる各国の庭園も散りばめ、自然の中で散歩やウォーキングを楽しめるように設計している。
わたしたちが連想するガーデンと違い、ブッチャード・ガーデンに一歩足を踏み入れると、日常生活から抜け出し、非日常の自然の楽園に身を置いた満足感に耽ることができる。日常性から非日常性への環境づくり、この知恵も、観光づくりのポイントである。
非日常性といえば、バンクーバー島そのものが、観光客に非日常性の舞台、つまり観光・旅を満喫させる環境を創り上げている点も見落としてはならない。
ブッチャード・ガーデンのあるビクトリア(ブリティッシュ・コロンビア州の州都)がそもそも「クイーン・シティ・オブ・ガーデン」と呼ばれる通り、文字通り、美しい公園都市で、市内を散策しているだけで、咲き乱れる花々を楽しめる。しかも、かっての現地エスキモー族や農業開拓者あるいは英国など、各国からの移住者などの古き住家や植民地様式の建築がそのまま各地域に保存されており、十八、十九世紀時代の歴史をしのばせる。
むろん、無数の博物館やギャラリー、風格のある歴史的構造物も、訪れる人の目を楽しませてくれる。十九世紀後半に建築されたロマネスク風の支庁舎や博物館、音楽ホールなどは、レンガ造りのイギリス風の構築物。豪華なエンブレス・ホテルは、砦を見下ろすかのように立っており、イギリスが全盛を誇ったビクトリア王朝時代の古きよきイギリスの魅力がしっかり根付いた街並みだ。
足を一歩のばせば、これまた高緯度地の特性を生かし、例えば、サーモン釣りやホエール・ウオッチングからカヤッキングやセーリング、さらに原生林の中を縫うようにハイキングやサイクリングコースなどが完備され、さらに北限の天体観測所や伐採地から積み出し港まで林業を体験できる手の込んだ観光施設や博物館などまでそろえているあたりが、戦略的である。
魅力ある観光地に創り上げるには、「売りものが一つでは成り立たない。その風土、環境に合わせた複層的な“呼びもの”を、それも特化させて築き上げることが必要なのである。それが観光客を非日常の舞台に招くことであり、旅を堪能させたということになる。
◇ ◇ ◇
カナダ西海岸にある、同国第二の都市、バンクーバー。ここからフェリーなら一時間半ほどのところに、世界各国から年間三百万人の観光客が訪れる「観光の島」バンクーバー島がある。
この美しい魅力的な「観光の島」に三回ほど足を運んだが、その都度、なぜか、小笠原の島を連想したものだ。島の顔、表情といったらいいのか、島の立地、風土、条件が小笠原の島と似ているのである。
むろん、島の端から端までが約五百・、人口は六十万人だから、小笠原とはスケールは違う。が、この美しい島を楽しんでいると、至るところで、はるか小笠原の島が可愛い“孫”のように想い出されてくる。それほど、不思議に共通項があるのだ。
日本の近くでいうなら、サハリンと同じ北緯五十度に位置しながら、太平洋の黒潮と背後に高い山並みをひかえ寒気が遮られているため、気候は温暖な島である。つまり、寒冷なカナダの国にあって、気候風土が異なり、花の咲き乱れる温暖な地という点で、日本風土と異なる“常夏”の小笠原と似ている。
島そのものも、青い海とまぶしい太陽に恵まれ、古い木々が生い茂る森林、そびえ立つ山と岩、肥沃な土地、豊かな植物群に富んでいるところまで、小笠原の島とそっくりである。
バンクーバー島を世界的な観光島にしたのは、五千種類の国内外産の花と各国の庭園を演出した壮大な「ブッチャード・ガーデン」といっていいだろう。もともと、この島は、温暖な気候風土を生かして、というより、寒冷国の中の温暖の地という特異性を武器にして、美しい花と緑の「庭園立島」づくりを“国是”とした。今から八十年前の事である。だから、街そのものが、庭園である。一日の平均日照時間六時間半という恵まれた気候を生かして、市内にはシャクナゲやバラ、ツツジなど、さまざまな花が咲き誇り、至るところに庭園や公園が点在する。
その、いわば極めつきが、ブッチャード・ガーデンである。広大な敷地をよくもここまで造園したものだ。低木、樹木の中を縫うように軽いアップダウンの遊歩道が続く。五千種類の色彩鮮やかな草花が咲き誇る。二百種以上のバラが植えられたエリヤを通り過ぎるだけで、たっぷり十五分はかかる。
点々とイタリア、ドイツ、中国など、各国の趣の違う庭園があるのが、また興味深い。むろん、淡泊な味の日本庭園にも、観光客がつめかけている。
観光地でも、リゾート地でもいい。客(需要者)を呼ぶためには、「ここだけにしかない」という特化した「売り物」を創り上げることだ。その特化のポイントは、その地の自然や環境、風土などから固有の持ち味を発掘して、それを創意工夫を重ねて商品化することである。
ブッチャード・ガーデンは、そうした島の環境風土の特異な“利”を武器に知恵を重ね、特化した成功例なのである。しかし、これだけでは、まだ本物の観光立島にはなり得ない。 バンクーバー島の観光おこしは、さらに多面的な対策の手を打っている。
次回でこの点を紹介しよう。
NEW! (12年・4月号)
(筆者)茨城大学助教授 岩佐淳一
高度情報社会といわれ始めて20年近くが経過しました。はじめは何やら絵空事のような響きでしたが、光ファイバーケーブルの敷設、インターネットのお茶の間への急速な普及、デジタル放送による多チャンネル化などでこの言葉も急速に現実味が出てきたように思います。今回は小笠原におけるパソコン利用の変化に関する調査結果をみてみましょう。
1995年におこなった調査では小笠原住民のパソコン所有率は13.9%でした。ワープロは32.5%です。この数字を日本の平均と比べてみると、同時期、全国のパソコン所有率は18.9%、ワープロ所有率は40.7%(平成8年『通信白書』)だったので、全国平均より若干下回るくらいの普及率だったとみてよいでしょう。どのような人々がパソコンを所有・利用していたのかをみると、年齢層では30歳代、次いで40歳代、職業構成でみると、会社の役員、事務販売職の所有率が高く、公務員・教職がそれに続きます。しかし、利用の頻度をみるともっともよく使っていたのは会社役員、公務員・教職に従事する人々で、なおかつパソコンを「よく利用している」と答えた人は全体で7.1%にすぎませんでした。もっとも高かった会社役員ですら17.4%という低率です。95年頃、パソコン通信の機具を所有していたのはわずか5.1%にすぎません。
これが1999年になるとどのように変化したでしょうか。まず普及率ですが、調査では全体の27.1%と4年前に比べて倍増し、全国平均に近い数字(28.8%、平成10年『通信白書』)になっています。利用についてみてみると「現在使っている」と答えた人が38.5%と4割近くの住民がパソコンを日常的に用しています。また「よく利用している」と答えた人の割合も20.6%と以前に比べてかなり増加し、パソコン利用が常態化していることがわかりました。
利用用途ではどうでしょうか。やはり文章作成がもっとも多い(40.5%)のですが、インターネットと答える住民が2番目に多い(22.1%)ことが注目されます。どうやらパソコン利用頻度を押し上げているのはインターネットに原因があるようです。インターネットは万人が自らの情報を発信することができる画期的なメディアですが、住民の皆さんも小笠原の魅力をインターネット上でもっと積極的に発信してはいかがでしょうか。
【2000.1月号】
情報化の波と小笠原(6
「テレビの効用意識―その5つの変化」
熊本学園大学助教授 守弘仁志
小笠原の人々は、テレビ放送の「効用」についてどのように考えているのか、これまでと変わったのか、それとも変わっていないのか。この点について、過去三回の調査をもとに検討してみたい。「テレビ放送の効用」に関して、われわれの調査では一人当り三つ以内の回答を求め、地上波開始以前の考え方については、「衛星放送の効用」として回答してもらうことにした。その結果、人々の考え方はおよそ5つのパターンに分かれた。
その第1は、「地上波導入によってテレビの効用が上がり、導入後も引き続き高い」ケース。そのモデル的な回答は、テレビ放送によって「さまざまな意見や考えが理解できる」というもの。この回答は、受容可能なメディアが、NHKの衛星放送のみだった状況から、民間放送8局にまで拡大した結果であることが明らかといえます。
第2は、「地上波導入によってテレビの効用は上がったが、導入後、その比率が下がっていった」ケース。このモデル的回答は、「現実にはできない経験が味わえる」点にテレビの効用を見出す場合。NHKとは異なった、「刺激の強い」民間放送の番組も入ってきたため、この種の番組が、小笠原の現実、NHK的な「現実」とは少し異なったものとして受け止められ、その刺激が一時的なテレビの効用を引き出したともみることができる。
第3のパターンは、「衛星放送時代より効用率が下がり、しかも導入後も下がったまま」のケース。そのモデル的回答は、「毎日の生活に習慣やリズムが生まれる」という場合。地上波導入以前は規則的な視聴習慣を持っていたり、「時計代わり」の習慣やリズムがあったが、導入後は多くのチャンネルが多様な番組を放送し、生活の規則性と結びついたテレビ視聴の効用は薄れたケースがこれに当たる。
第4は、「衛星放送時代より効用率は下がったが、やがて再び戻った」ケース。この回答モデルは「毎日の生活に欠かせない情報が得られる」という回答に求められる。地上波導入により小笠原とは関係のない大量のテレビ情報が流入し、一時的に人々の生活を圧倒した。だが、一時的な「お祭り」はやがて沈静化し、人々はふだんの生活を中心にしていくにつれてテレビの効用意識も変化したと考えるられる。
第5のパターンは、導入前も導入後も「変化のないもの」ケース。これには「人とつき合うときの話のタネが得られる」「家族の団らんに役立つ」などが該当する。
テレビの効用については、長期的、短期的ほか、多様な視点から捉える必要がある。急展開しつつある情報の多様化という事態に人々の生活や考えがうまく対応し、メディアの効用を高めていけるかどうか。小笠原もまたこの現代的な課題を背負っている。
(11月号)(連載・5)
小笠原におけるニュースの関心構造の特異性
(筆者)大妻女子大学助教授 炭谷晃男
日頃どのような地域のニュースに関心を持っているかについてたずねてみました。96年調査では,@「全国のニュース」(69.7%),A「世界・国際ニュース」(42.6%),B「村のニュース」(27.1%)の順番という結果となりました。必ずしも地元ニュースの関心が一番高いわけではありませんでした。放送メディアでは地元ニュースは入らなく,もっぱら小笠原新聞ないしは「小笠原電報」によるほかありません。まとめてみると,@地元のローカルな情報に対して関心が高くなかった。A海外のグローバルな情報について比較的関心が高い。Bナショナルな情報の関心が最も高い。この結果から,小笠原の人々の関心構造の特異性が明らかになりました。
沖縄県大東地区の同様な調査では,@「沖縄本島のニュース」(61.7%),A「全国のニュース」(60.2%),B「世界・国際ニュース」(22.8%)となり,小笠原地区とは全く違った結果となっています。全国ニュースに関心が高いというのは日本国内共通していますが,第2番目にローカルな情報が位置することは離島や過疎地においては見られる傾向です。それに対して,小笠原では,グローバルな情報が位置していることが最も際だった特徴となっています。その要因には,@欧米系住民と共生をし,一時米国統治下にあったと
いう歴史的要因。A東京都と直結した交通路があるという地理・交通的要因。BBS放送に慣れ親しんできたメディア的要因等が考えられます。さらに,私の行った調査では,小笠原と共通性をもった地域は,実に多摩ニュータウンであったという結果が得られました。ニュータウンと離島という全く社会構造の異なった地域でありながら,関心構造において共通性があることは極めて興味深い結果ですが,詳しく触れる紙幅がありません。
以上の結果を踏まえると,今回の放送事業では,全国のニュースがストレートに小笠原に入ってくるようになり,その点は大いに改善をされました。ただ,依然として,地域のローカルなニュースについては入ってきません。そこで,コミュニティFM局やかつて島でも行われていたCATV,さらには富山県山田村で行われているパソコンの活用など村民の一体性と地域生活情報をタイムリーに伝達するメディアの必要性が課題として残されています。
ジョサイアさんが運んだ
「南洋踊り」
前回紹介した高崎喜久雄さんに〈南洋踊り〉を教えたのは故菊池虎彦さんであった。その虎彦さんの妻、菊池スエカさん(86)にお話を伺った。
〈南洋踊り〉が父島で非常に流行ったのは、スエカさんが小学校高学年だった大正末期のことである。その当時青年団の人々にこの唄と踊りを教えていたのは、ジョサイア・ゴンザレスさんと、その弟クリストファーさん、そして虎彦さんであった。ジョサイアさんは、スエカさんの実姉の夫にあたる。スエカさんと虎彦さんとは、年が十一歳も離れており、当時はまだ子供だったスエカさんは、虎彦さんが実際に南洋に行かれたことがあるのかどうか、ご存じではない。
しかし、ジョサイアさんは確かに南洋に行っていたという。ジョサイアさんは、当時、南洋一帯で開発に携わっていた南洋興発会社の、サイパンの所長と結婚した姉を頼って、自らもサイパンに渡り、この会社に勤めていたのである。そして、サイパンと父島とを行ったり来たりしていた。上部ロードリッキさんは、サイパンでジョサイアさんに会ったという貴重なお話をして下さった。
ロードリッキさんは、当時ずっとポナペに住んでいたため、仕事でサイパンに渡った際会った従兄弟のジョサイアさんとは、初対面であった。「今晩踊りを踊るから、見においで」とジョサイアさんに誘われ、不審に思いながらも行ってみたところ、現地の方達が百人くらい並んで踊っている中、ジョサイアさんは先頭に立って踊っていたというのである。その様子に、ロードリッキさんは大変驚いた。
この時ジョサイアさんが踊っていた踊りが、現在小笠原で〈南洋踊り〉と呼ばれるものと同じものであった。ロードリッキさんによれば、おそらくこの時〈夜明け前〉は含まれていなかったが、踊りはほとんどそのままだったという。
このロードリッキさんのお話からも、ジョサイア・ゴンザレスさんが、大正末期までに、サイパンで覚えた歌と踊りを小笠原に伝えたのは、間違いない。
●上部ロードリッキさんは、昨年十二月に、お亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
今回から、〈南洋踊り〉のルーツを求める旅を始めたいと思う。〈南洋踊り〉のルーツに関しては、ジョサイア・ゴンザレスさんが、大正末から昭和初期頃、サイパン方面から覚えてきたという説がある(段木一行氏「小笠原諸島の民謡」『文化財の保護』第十四号、東京都教育委員会編、一九八二年)。ジョサイアさんは、聖ジョージ教会の牧師、小笠原愛作さん(68)の父である。
そのジョサイアさんが、いつ頃、どのようにして〈南洋踊り〉を覚えたのか、そして小笠原にはどのように広まったのか、分かっていない。そこで、様々な方の〈南洋踊り〉に関する体験をお聞きし、整理していくことによって、〈南洋踊り〉のルーツと小笠原における変容を、明らかにしていきたい。まずは、現在父島で活動している「南洋踊り保存会」の会長、高崎喜久雄さん(78)に、ご自身が〈南洋踊り〉を覚えた経緯について伺ってみた。
高崎さんは父島に生まれ育った後、昭和十一年五月に父島測候所に入所した。それからおよそ二年経った年、十一月の大神山神社の例大祭で、恒例となっていた青年団による芝居の主役に、高崎さんは抜擢された。
その芝居は『南へ』という題で、ある日本の青年が南洋に憧れて旅立ち、チャモロ美人と恋に落ちるという内容であった。高崎さんはその青年を演じたわけだが、芝居の中で〈南洋踊り〉を踊る場面があり、その時初めて〈南洋踊り〉を習い覚えたのである。
このとき高崎さんに〈南洋踊り〉を教えたのは、この芝居の作者だった故菊池虎彦さんであった。その後高崎さんは、小笠原村の助役になって間もない昭和五七年、故浅沼正之さん達と共に南洋踊り保存会を作って、〈南洋踊り〉の保存に努めてこられた。高崎さんによると、現在高崎さんが踊る〈南洋踊り〉は、菊池虎彦さんに習い覚えた当時のものと、全く変わらない。
菊池虎彦さんは、前述したジョサイア・ゴンザレスさんの義弟にあたる人である。高崎さんとジョサイアさんを結ぶ菊池虎彦さんの存在が、小笠原における〈南洋踊り〉の流布に、大きな役割を担っている。