2010.6.16
本土で最初に戦場となった島・硫黄島
小笠原全島民の想いと歴史認識 ![]()

戦後65年、平成22年6月に小笠原村は本土復帰43年を迎えた。
かって小泉純一郎総理(当時)は昭和56年6月16日、沖縄県を訪問し戦没者慰霊式典の挨拶の中で、「先の大戦で、本土で唯一の戦場となり多くの犠牲を強いられた沖縄県に対して、沖縄の振興のため、県民の意見を聞きながら国の責任として、最大限の努力をする」と力強く述べ、国の持つ責任は大きいとの考えを示した。
この言葉を信じた沖縄県民の多くは、民主党が示した基地問題(普天間、辺野古、徳之島など)移設問題に異論を称えた。確かに、沖縄県民は多くの犠牲を強いられ、辛苦を舐めた。沖縄の振興に対して、国の責任を果たすことには、誠にその通りで異論はない。
ただ、小泉元総理の歴史認識の中で、「本土で唯一の戦場となった沖縄県--」としているが、正確に言えば、日本国内において、真っ先に地上戦となったのは硫黄島(いおうとう・小笠原村)なのである。これは、小笠原全島民の想いばかりではなく、全国民の共通した歴史認識である。
こだわるつもりはないが、政権を担った民主党も、菅直人新総理も、小笠原村は沖縄県と同じ悲劇の歴史があることを新たに直視し、菅直人新総理を初め、政府も小笠原に対して、国の責任を真剣に考え、具体的な対策を取ってほしい。
硫黄島は、戦後65年経った今でも、硫黄島旧島民は国内でありながら我が故郷にも帰れず、戦没者遺族は、肉親の遺骨収集も道半ばで、悲涙に暮れている。
先の大戦で本土防衛のため真っ先に戦場となったこの島は、日米合わせて2万7千人もの戦死者を出し、その内、未だ一万一千余柱の日本軍将兵の遺骨が、未収集のまま残され放置されている。政府は、遺骨収集問題を含め、戦後処理問題の一日も早い解決を、改めて考えていく必要がある。
今回の墓参で、硫黄島旧島民や戦没者遺族の人たちから「私たちは、すでに高齢化して墓参も、年々ままならず、亡くなる人も多い」「 戦前住み慣れた住居も跡形もなく荒れ果て、その所在を探し当てることさえ、困難をきわめている。せめて、地名版の設置でもしてほしい」などの声を聞いた。
また、「重機と人手があればもっとはかどるのに---。」と高齢にむち打って遺骨収集作業をしていた旧島民の1人が、絞り出すように胸の内を訴えていた。地熱が50度を超す酸欠の地底で、陽の目を見たがっている一万一千余柱の遺骨を、早急に収集し、硫黄島の戦後処理に結末を付けなければ、国だけでなく、小笠原村の“戦後”は終わらない。もっと大規模な収集作業に着手する事を望みたい。
もう一つは、戦没者と遺族の苦悩に報いるためにも、一日も早く戦後に区切りを付け、恒久平和を願い、未来に平和を発信するためにも、沖縄のように、戦争犠牲者全員の記名碑を建立する事を願いたい。涼風が吹き、故郷に続く海の見える場所に。
私たちは、今の平和と繁栄が多くの人々の命の犠牲の上に成り立っていることを、もう一度確認し合いたい。『他人の犠牲の上に自分の幸福を築くな』という言葉もある。
戦闘機の滑走路下に、戦争で犠牲になった者を残したまま、「平和のため」の議論はできない。
悲しみの硫黄島の海はいよいよ青く深い。将来ここを「世界の平和の発信地」としていくことを多くの人に訴えたい。
本紙社説から 【小笠原新聞・山縣浩】